可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

四月(4/4)

自分の部屋の天井をぼんやりと眺めながら、俺はたゆたう意識とともに寝転がっている

間仕切りを開けて入ってくる佐月は、手に持つ盆に何かを乗せて

コップ一杯の水と、湯気のたつ炒飯

お前という奴は。勝手に台所を使うな

そんな言い方するんだったら、もう作らないけど

誰が作ってくれと頼んだ。自炊ならしてる

いつか君の胃袋を掴むから、その為の練習も兼ねて、ね?

そうしたいなら、今よりも味を濃くしろ

体に悪いんだよーっ


炒飯を受け取りながら、これが夢であることを頭のどこかで悟る

妙な浮遊感やぼやけた色彩、そしているはずのない幼馴染み

食べ慣れた炒飯を口に運びがら、佐月を眺める

どうしたの?人の顔をじっと見て

いや、なんでも

ひょっとして……惚れた?

あほか

むう。どうせあほですよ

ずっと前から惚れてる


夢の中だと知っているからこそ、普段なら口が裂けても言えないようなことを口走れて、自分でも拍子抜けするほど簡単に

対する佐月は目を白黒させながら驚くばかり

え、ええ?

水を一口含む
目にかかる前髪を片手でのけながら、続ける

お前が好きなんだ、恐らくは

お、恐らくって……

お前が死んで、漸く理解出来た。お前の価値や、意味が

最早自分がなにを口走っているのかすら把握しきれないそばから、感情は字をもって成り色を加え輪郭を整え言葉となる

控えがちな、しかし迷うことのない独白は、謝罪


……よくわかんないんだけど、君の中で私は死んだことになっているのかな、

座るすぐ傍らに腰を置いて佐月は俺の表情を覗き込む。目が合う。到底本当のことは口にする気になれなかった

お前が死んだ夢を視ていた

口早にそう告げると佐月はやっと合点がいったようで、だらしなく頬が、至近距離で弛む

誰かの手が伸びてきて俺の髪をぐしゃぐしゃに乱す

そっかそっか。それはさぞ寂しかっただろねえ

なにをする

頭を撫でています

……

……


お前の考えることなんて大体わかる

どういう意味?

なにか言いたいことでもあるんだろ、言え


すると応える上目遣い、数瞬の間をおいて


んー、と、ね。私が死んで、君はどう感じたのかなって

言ったところで俺にしては陳腐だ、なんて言って、笑わないか

そんなことで笑わないよ

お前を失うぐらいなら、俺が代りに死んでしまいたい、と思った


突き上げる後悔が、痛いほど喚く

それは十分、君らしいと思うよ

そうか

でもそれじゃ、まだ駄目だね

なにが

最善じゃない

はっきり言え、なにがだ

誰も得しないよ

所詮は夢だ、今はここにお前がいる


佐月は死んで、故にこれは夢で、夢なら佐月がいて、俺を迎える。だからせめて、この世界だけででも、送りたい

彼女の微笑む人生を

佐月を失った現実を夢に、
佐月のいる夢を現実に、
今だけは、そう捉え違えていたいと願う


ほんとにそう思う?

お前が死んだのは夢で、死んでないのが現実で、現にお前はここにいる、それでいい

憂いを帯びた、溜め息ひとつ

「ねえ」

……

「君は贖いたいのかな」

きっと、そうだ

「償いたいのかな」

恐らく、違う

「そうすることでしか遣りようがないの?」

ああ、

「君はなにも。悪くはないのに?」

これは自身にけじめをつけるためだ

「じゃあ尚更」
ひやりとしたなにかが頬を撫でる

生前一度も繋ぐことのなかったその手


「贖うというのなら、私に思い出を頂戴」

思い出?

「何度もいうけど君は悪くない」
「でもまだ君が贖わずにはいられないというのなら」
「君がこれから体験する思い出を追体験してみたいの」


「君の命よりも、そっちの方がいいかな」

佐月の指先が頬で渦を描く。

……どうしても俺を生かしておきたいらしいな、

「それはもう、ね」

断ったらどうする

「諦めるしかないけど」

苦笑する
それならば、仕方ない




__________
身体が浮き上がる感覚を経て、微睡みから目覚める
くたびれながらもこちらを気遣う目線

身体は起こせた


「先輩……」

……俺は、

「倒れました」

誰かの布団の上
畳の匂い

「一応、まだ救急車は呼んでませんけど。いらなさそうですね」

すまない、迷惑をかけた

「先輩は」

なんだ

「……いえ、やめておきます。先輩の言う通り、私は他人に干渉しすぎるきらいがあるようなので」

俺は手元に視線を向けた



佐月は

「……はい」

娯楽同好部の代表者で

生まれた時からの幼馴染みで

間接的に俺が殺した

「……」


罪未満の罪の独白


間の抜けた女で、料理しかできなくて

それでも居心地のいい奴だった

「先輩、」

思考はといえば何も働いていなくて、じゃあなにが俺の口を使役し話させているのかといえば俺以外の何者でもなくて、とはいえ脳幹は機能していない。佐月が話している気さえする

俺は、

「先輩っ」



思わず口が止まる
水瀬を見つめる

誰かの手が伸びてきて俺の髪をぐしゃぐしゃに乱す

「お腹空きませんかっ」

犬みたいに笑う女に犬みたいに撫でられている

既視感。

今この瞬間に、なにかをしたいと思った
夢の、幻想の中で交わした約束を思い出した

これからも生きなければならない
しかしそれは苦ではなかった

佐月への贖いをもう一度思い返して
水瀬の手を払いのけながら尋ねる

米はあるか

「勿論です。なに作りましょう?」

いや、台所を貸してくれ、炒飯を作りたい

「いいですけど」

水瀬、

「はい」

色々ありがとうな

「はあ」

呆気にとられた顔
間の抜けた顔が誰かと重なる


生きたい理由は増えなくて
死にたい理由もでも増えなくて

奇妙に釣り合いの取れた重しを担いで歩く

くすくす、という笑いが今にも聞こえてきそうな気がした

四月(3/4)

身体が重力を遠ざけた

より精確に描写するなら垂直抗力が霧散した

左足は虚空を踏み締め、傾く体幹は棒倒しを彷彿とさせる


「先輩!!」

右腕を掴む心許ない感触と眼鏡の奥に煌々と輝く瞳、圧倒的な生の脈動

強引に引き寄せられて空いた手を地につく
肩で息をする水瀬が掴み上げる俺の胸ぐら


巨大な鉄の塊が目の前を掠めていった瞬間俺と佐月とを繋ぐ糸のような何かが千切れ飛んだ

「死ぬとこだったんですよ!」

俺はその糸の切片をただ眺めていた

「聞いてるんですか!」

すまない、前方不注意だった

「……」

大粒の涙を目尻に浮かべて水瀬は荒い息のままこちらをじっと見つめる

「どこか落ち着ける、場所に行きましょう」

その語気に有無を言わせないものを感じ従う


死を間近にして、俺の脳は多少なれど興奮物質を分泌したのだろう

何をするでもなく小刻みに震えていた足も気にならず流れで俺は水瀬の後に続く

いつの間に夜になった道を歩く二人に浮かび上がる三日月

どこへ向かっている

住宅地を無言で突き進む前の女に声をかける

「私の家です」

だろうな
踵を返す

帰る

「駄目です!」

背後からシャツの裾をぐいと捕まれた

なんで

「死なれたら困ります」

死なん

「いいえ死にます」

なら死なせておけばいい

「そうさせない為に私の目に届く場所に止めておきます」

拒否する

誰に断ってそんなことをしていると声を大にして言ってやりたかったが声を大にする余力もなくて舌打ち

「拒否なんてさせません」

どうもそうらしい
抗うのにも疲れた

好きにしろ

「言われなくとも」

沈黙が、蔓延しはじめる、辺りに

自殺する気だったかと問われれば、そうだともそうではないとも言える

ただ確かなのは佐月に会えなかったということ、佐月に会う機会を失ったということ


本当にいいのか

「何がですか?」

よく知りもしない男を家に上げて

「犯行声明ですか?」

通論だ

「……先輩はそんなひどい男性じゃないでしょう?」

肯定はしない

「ですが、私のことよりも今は先輩が心配なので気になさらず」

なら俺に襲われても文句を言うなよ

「言いません。むしろ先輩ほど造作の整った人なら別に構いません」

参った
腹も減ってきたし



問答の直後に水瀬が立ち止まり指を指し見てみるとそれは変哲のないアパート、通されたのは女らしさを匂わさない小綺麗な部屋、204と記された室

勧められるままに座布団に腰を置き水瀬が熱い茶を出す

奇跡的に散らばることのなかった食材、それらの詰まるレジ袋を傍らに置き、果たしてこれが如何な炒飯になるだろうか、

「で、お聞かせいただけますか」

何を

「何かしら事情がおありならお聞かせ願います」

帰らせろ

「今は駄目です」

何故見ず知らずのお前に私情を話さねばならない

「今日入部したとはいえ藤堂先輩はサークルの先輩です。そこに見ず知らずという関係性はないです」

屁理屈はいい

「私が手を伸べなければ先輩は死んでいました」

……

「人の生き死にに関わることとあれば誰であれ心配するのが当たり前だと思いますが」

前方不注意だったと言った筈だが

「そうは見えなかったので」

……

「どうしました?」


個人的なものは個人が所有または領有するものであり、それは他者という観点において周く不可侵なものだとまでは言わないが、「個人的」という所以を考えないというのは論外だ


お前は

「はい」

自分の感性を重く判断基準においているようだが

「そんなことは、」

そんなことは独り善がりであり且つ欺瞞的だ

「……」

お前は止めるべきではなかった

「見殺しにしろ、と?」

そこに当事者の意志が存在するのなら

「命は一度きりなんです」

死を選ぶべきではないと言いたいのか

「進んで死を選ぶことは決して選択肢にはありません」

考えてからものを言え

「どういうことですか」

睨む目

中空で衝突する

誰もが生きたいと思える世の中じゃない

「それでも生きるのが人間です」

生に執着する意味がわからない

「人は意味を求めずに生きます」

意味を求めた俺は異端か

「はい」

では何故それが異端なんだ

「生に疑問を抱くからです」

ただ与えられた生涯を享受するだけが人生か

「そうです。それ以上に何を求めますか?」

俺も

口籠る

享受するだけの人間だった

「……」

何かを求め探しあぐねてもいなかった

「では、なぜ」

失った

「……何をですか」

喉の渇きを覚えた

意味を

言葉は重く、放たれた途端に沈む

人が意味を求めずに生きるのは十二分に理解できる

それは意識し始めれば最後収まる所が見当たらないからであって何ら不自然ではない


だがいつも側にあったあるものこそが俺の人生にとっての重要な〔意味〕だったとしたら

欠けて初めてその〔意味〕の重要性をその身に知らしめされたら

俺は自身が朽ちるまで意味を求め続ける

「その意味を失った今、先輩は何を探すんですか」

言う義理はない




「サークル長の荻野先輩、でしたっけ」

不意に目の前に居る女を空恐ろしく感じた

「その人、なんですか」

欠落する疑問符
しかしてそれは疑問の意を含まず

「後を追うつもりだった、と」

違う

「君のいない世界に意義はない、なんて感じで」

やめてくれ

「その死には何れ程の価値がありますか」

立ち上がる
ここから立ち去りたいと思う
殺してやりたいくらい腹が立つ
しかし
吐かれる言葉は全て自問した内容に重なっていた

「それを荻野先輩は望んだんですか!」

血が沸騰する

知らないお前が佐月を語るか

「私だって、小さい頃に家族を失いました、ですが、自分以外の人との別離はつきものです。前を向いて生きることこそ」

知った口を聞くんじゃない

「関係ない、だから干渉するな、そうやって塞いでばかりいるから、直視しないから先輩は死を軽んじるんです」

どうなりと言え、ただし

「そんな先輩を荻野先輩が見たら悲しみます」

佐月にだけは触れてくれるな


水瀬も立っていて、
堅く握られた拳が、それ自体が独立しているかのように小刻に震えている

帰る

唇はそう動いたが、声帯が絞られ過ぎて音にならなかった

瞬間

あれ、と感じた時点では既に遅く、黒ずんでいく視界の中で平衡感覚がずれていくのを知覚

なにかの箍が外れたらしい

まともな飯を喰わなくなってどれだけ経つだろうか
膝をつく
間を置かず手を床につくも、力が入らない

音が耳から静かに抜けていく
もどかしいと歯噛みするほど緩やかに、時は流れていく

体が意のままに動かない

蝕まれゆく意識の中で、先刻の水瀬の言葉がよぎる

「その死には何れ程の価値がありますか」

価値なんてない
ただ佐月に会いたいだけなんだ


それだけで構わない、俺の命なんざいくらでもくれてやる、


「ばか」
拗ねた声がする

「君の命なんてくれていらない」

奇妙な言い回し
その言い方が、嫌いだった



暗転

四月(2/4)

青ざめた気色で水瀬は要塞を後にする
よもや自分は霊現象とやらに遭遇したのではないか?とでも言いたげな様子で

霊などこの世界に一欠片も存在し得ない

棟内にすら廃材が溢れる要塞でも例外はなく

そうだ
あれはたしかに佐月だが
本当の意味の佐月ではない
動揺が腹からするすると滑り上がってきて、首元をかすめる
「いると思うなあ、幽霊は」

何が言いたい

わかるでしょ、と言いそうな顔をして

「わかるでしょ」

一々そんなこと言わなくても、といった面持ちで

「一々そんなこと言わなくても」

佐月は静かに目線で射る

少し、黙っていてくれ

「嫌よ」

黙れ
混乱しているんだ
今はなにも考えたくない

「身勝手」

聞きたくない

「人殺し」

聞きたくない

「どうしてあの時」

あああ

「助けてく」
ああああ、あああ
「れなかったの?」










どうして生きているんだ

そう呟いた

佐月は困ったように薄くはにかむ

「だから、」
「私もう死んでるんだって」


どこかからか啜り泣く声


ならここにいるお前は何だ

「君の妄念」

口を開く佐月

「君はあの日、死ねと言った」

ほんの些細な取るに足らない口論

しかしたしかに感情に委ねて言った

そしてその日の晩に佐月は交通事故で逝った

「君の知らない間に君の知らない場所で君の知らない人が運転していた車に君のよく知る幼馴染みが轢かれた」

佐月に謝ろうと電話をかけるところだった

「あの日の晩私は何をどうしていいか、なにもわからなくて」

「馬鹿みたいだよね、そんなことを言われただけでショックを受けるなんて」

「だけど私は前しか、いや、前すら見えないでいて、気が付けば」

トラックに

即死だと聞いた

「ほんとうかな」

だった、はず

「、」

そう聞いた、医者から

「痛かったよ」
佐月は、くすくすと笑う


いい加減立つのが辛い
俺はその場に座り込む

俺が罪の意識を抱くのはお門違いだろうか

傍に纏わりつく妄念には消えてほしい

だが本当に消えてよいものだろうか

佐月の影は俺が産み出した明らかな妄念

だがそれは後ろめたい意識を具体に為したものであり俺の中にまだそれが残っている確証に他ならないのではないだろうか

「車に知らない場所で君の間に知らない人が場所で運転していた間に知らない君のよく知る幼馴染みが君の知らない人の車に場所で轢かれた」

俺が殺した

「車に知いら車なに君の場で所君の間に知ら君のな間に人が場車で場に運所で転てた間な染に知い君運のくなよる知幼みが君の幼馴染みが轢かれた」

俺が殺したんだ

佐月は、くすくすと笑う

「死ね」
俺がそう言ったんだ




酷い空腹と陽の去った後の寒気で意識は冴え冴えとしていた

窓の外は黒黒とした空

世界を憂うかのような、そんな暗幕


足を引き摺るようにして、前へ

底の磨り減った草履が一歩進む度にざりざりと悲鳴を上げる

入ったことのない食料品店へ入る

鶏肉とレタスとトマトを購入し出る

ただそれだけの荷物が鉛のように腕を牽引する

炒飯を作ろう

改札を通る

佐月の為に

まばらな意識で考える

右手に力が入らなくなるのを客観的に捉えながらレジ袋を左手に持ちかえる

ホームの先頭に立つ

何かが自分を呼んだように思えて首を捻り背後へ振り返る

ごうごうと風が鳴く

でもそこには顔のない赤の他人だけが犇めいていて言い知らぬ悪寒を感じ前を向き直す


佐月は、どうしているだろうか

今もまだ、痛みを叫んでいるのだろうか

そうして俺はいつか、佐月のことを忘れていくのだろうか。


話したいこともないわけじゃない

たまにはお前の膨れっ面も見ていたくなる

くすくすとくぐもるあの忍び笑いだって、聞こえないと何かが欠けたようだ


佐月はいつも側にいた

どれだけ邪険にしたって離れなかった

なのに

どうしてお前は今ここにいないんだ?


一歩、
また一歩と、
足を引き摺る
ようにして、前へ

眩しい灯り
準急がすぐそこまで来ていた

四月(1/4)

正門から入るよりも南門からの方が約六分、時間を短縮して室に着く

土だけで充たされ種を植えられずに置かれた鉢植えが周囲を囲むのを横目に第四号棟、誰かが面白半分に「要塞」なぞと揶揄した鉄筋へと足を踏み込む

律儀に詰め込まれた機材や紙束の山をすり抜けて三階北西部まで到達、その場から東へ七歩半
「c-14」と名付けられた木戸の前に立つ

悠久の時の経過により全てが等しく赤茶けた校舎、三度目の春、昼前

金属同士を擦り合わせたような嫌な軋みが寝不足の頭を蝕む


足元に転がる何かの基板を爪先で端によけながら自分の、機嫌が悪いことを知った


室に入る前に一服しようか

右足の親指に重心をおきながら黙考、マルボロの残りが心許ないので今は控えることにして却下、

取手に手をかける

からり、と見掛けよりも軽快な音のする引戸を右に引けばそこは整然とした室

「やあやあ」

佐月が回転椅子に腰掛け足を組みながら不敵な笑みを差し向けてくるのを無視し使い古されたパイプ椅子に身体を預け鞄から文庫本を取り出して読み耽る

耽ろうとした矢先にキャスターの音が迫る、佐月が近付く

「相も変わらずだけどその対応は何よ。もう少し私に気を使ってよ、具体的に言えば構ってよ」

他を当たれ

「断らないの、会長の要求である」

長を名乗るにしては些か理不尽且つ幼稚だが

「サークルの代表者に対しよくそれほど尊大な口が利けるものね。私に覇気が足りていない証かな?」

笑わせるな

「よもやこれが世に聞く“つんでれ”かも」

……

「ツッコミはないの?」

……

「さては図星なんだ」

ありえないだろ

「ありえあるよ」
奇妙な言い回し。その言い方が嫌いだった



勝手に解釈してろ

次の頁に手をかけながら返事
対話は心底面倒なのだが無視すれば一人語りを延延聞かされるので読みながら相槌だけ返す。のにも疲れた

いい加減にしてくれ

口の中だけで呟きながら頭の片隅で煙草を吸う選択肢を採択し栞を挟み文庫本を閉じる

「今日の新入生勧誘についての打ち合わせだけど」

嘆息を伴ってキャスター付きの椅子だか佐月だかが話しかけてくる

返す声を発することすら億劫なので放置

取手にかけた左手
と同時に
右手首に握力を感知

「真面目な話くらいは尻尾まで聞いてって」

疲れてる、離せ

捕縛からの解放

引戸を左へずらし右足を軸に左足を出す

声こそかけられなかったがちりちりと背を焼く感覚、みつめられる

後ろ手に閉める戸、時間にしておよそ一秒。その一秒が、心臓に刺さり続ける




閉まる
静寂





「あ、あのっ」

右方に在る気配に気付いた時には既にショートボブの、眼鏡をかけた女がこちらのすぐ脇に立っていた

誰だ

「み、水瀬と申します」

少しだけ尖った顎、黒みがかった焦茶の髪。目の泳ぎ方、不用意に要塞に入り込む無謀さを鑑みてこの女は新入生なのだろうと当てをつける

何の用で

「えっと、迷ってしまいまして……」
あはは、と笑いながら頭を掻く

ここに長居されても鬱陶しい

どこに行くつもりなんだ


「えっとですね……」
とろくさい手付きで肩掛け鞄からメモらしき紙片を取り出す

「娯楽同好部の、部屋です」

……入部希望か

「えっ……あっ、はいそうです」

後ろの戸を指差す

室はここだ

腕を下ろす

中にいる女に声をかけろ

足元の基板を避けつつ外へ向かう

「あの、ありがとうございました!」

後ろから活発な声がぶつかる

うるさい、大声を出すな

木戸を引く音



要塞の入口にある寂れた石に腰掛けマルボロに火を点けた

内臓にに染みる感覚

四月の陽光は想像よりも心地好く、うつらうつらと船を漕ぎ始めるまでさして時間はかからなかった

地面に腰を下ろし、寂れた石にもたれ、そして、目を閉じた



暗転




目が醒めると、
まず感じたのは痛み

腰、背中、首筋、凝り固まった筋肉が軋む

いてえな

「そんなとこで寝るからよ」

いたのか、佐月

寝起きだからか声が掠れる


「座椅子ならぬ座石か」

つまらんことを言うな

「新しい子が入ったね」

水瀬、だっけか

「今年はあの子一人だけかも」

入るだけいいだろ

「うん」

……

「……」

腹、減った

「お昼は食べたの」

いや

「朝は」

いや

「餓死すればいい」

そうしよう

「……」

……

「最近は」

……

「最近は」

聞いてる

「炒飯に凝ってるの」

……

「海老とキムチとオクラがお薦めである」

そうか

「新しいメニューもあってね」

ああ

「鶏肉とレタスとトマトとか」

……

「まだ作ったことないけど」

そうか

「何かのついでだし今度、味見に付き合って」

任せろ

「……いつもより喋るね」

気分がいいんだ

「さっきは悪かったくせに」

機嫌がな

「気分と機嫌ってどう違うの」

機嫌は心象

「気分は?」

そこにある雰囲気

「なにそれ」


蒲公英の綿毛のように微笑む佐月は、異性からよく言い寄られるらしい

飽きるほど見た顔だし今更何の感慨も湧かないが、それなりにこいつの造作は整っていると聞く

俺にはただの調子者にしか見えないが


不意に佐月が目を細めた

「あれ、君宛てじゃなくて?」

佐月の言わんとする先から見知らぬ女が近づく

「モテるねえ」

そう言い残しいつの間にか風の如く姿を消した佐月に一人残される

もっと早く言えよ

逃げる程の距離も体力もないので憮然とした態度で待ち構える、寂れた石に体重をかけて

見知らぬ女は眼前で立ち止まり、話し始めた

「藤堂先輩」

なんですか

「今、暇ですか?」

いいえ

「何をしているんですか?」

考え事を

「先輩」

はい

「あの、よければ、」

誰とも知り合いになるつもりはないです。連絡先もいらない

「……どうしても、駄目ですか」

どうしても

「理由だけでも教えてはくれませんか」

宗教上の都合で

「出鱈目は、なしで」

宗教上の、都合で

「……なにそれ」


女が立ち去った直後に影のように現れた佐月は、くすくすと笑う

何がおかしい

「そんな振り方ってある?」

悪いか

「あの子結構可愛かったのに」

お前の感性を押し付けるな

「それに宗教上の都合って」

咄嗟に浮かんだんだ

「別にいいんだけどね」

はあ、と溜め息

何だ

「本当に君ってば、意味わかんないくらいもてるよね」

今に始まったことじゃない

「誰かと付き合えばいいのに」

好いてもない奴と、か

「好きな人と」

いない

「うそ、今までに一度も?」

うるさい

「うそなんでしょ?」

悪戯を思いついた子のようなずる賢い笑みを浮かべ詰め寄る佐月に平手を打ちたいが、すんでの所で踏みとどまる

それよりも腹が減った

「あー、話、逸らした」

腹が埋まってからにしろ

「じゃあスーパーで食材揃えにいきますか」

わかった


誰も好きでお前を好きになったわけじゃない
ただお前が俺の近くにいただけで
だけど紛れもない、この感情は、恋慕

しかし素直に好きだ、なんて

言えるはずもない




「あの、」

今度は誰だ

「み、水瀬です」

……ああ

「入部の手続きをしたい……んですけど」

手続き、だと

佐月、お前手続きしてやってないのか

振り向いた時には既に跡形もなく

あの馬鹿


『死ね』

瞬間
誰かの声を聞いた



「あ、あの」

ああ悪い、手続きするか

「はい!」



部室にある長テーブルは平衡というステータスを持たないためか、その上でなにかを書こうとするとカタカタと穏やかに自己主張を絶えず行う


書類を渡し、書く上での留意点を伝え、終え、一息

名前なんかを記入するだけの書類に真剣な顔でうんうん唸りつつ向き合う水瀬を前に、思い出したように一言


さっき君がこの部屋で会ったのがサークル長の荻野で、俺が藤堂だ

返ってきたのは的外れな言葉

「えっと、」

何か

「私、誰にも会ってません、けど」

……なに

「この部屋では、誰にも」

……荻野とは、さっき君がこの部屋に入った時にいた女を指しているが

「ですから、誰もいませんでした」

……そんなことあるわけ

ないだろう


にわかに怯え始めた顔の水瀬
その瞳に映る俺も怯えていたのだろうか

秘蜜の香り

かみさまが、もしも私に魔法を使えるようにしてくれるならと、最近の私はそればかり考えている。もしも願いが叶うなら、魔法は一度だけで構わない。それだけで私は永遠に救われる気がするから。

彼女と初めて出会った場所は、窓の小さな学校の図書室だった。幼い頃から本の虫だった私が高校に入学してまず向かったのは、図書室だった。どんな本が、どうジャンル分けされて、どれだけ仕舞われているのか。気になって仕方なかったからだ。
噎せるような本の匂いを嗅ぎながら、棚から棚へと見て回る。気になったものは引き抜いて数ページ流し読んで、その中から特に気に入ったものはいずれ読み返すために記憶に留めておくようにする。
誰も見ていないことを確認した上で、たまに本に鼻を近付けてみて、直に匂いを嗅ぐこともある。年季の入ったものなんかは、それはそれは甘く、懐かしい匂いがする。誰も見ていないことを確認するのは、その行為に背徳的な後ろめたさを感じているからだろうか。
辺りをざっと見回し、誰もいないであろうことを確認した上で、気に留まった一冊に鼻を近付ける。静かに吸い込むと、醸成した活字の匂いがする。そんな私のすぐ左隣りに、彼女はなんでもないようにして立っていた。
反射的に固まってしまった身体にたちまち訪れたのは、燃えるような恥ずかしさだった。
「どうしてっ、あなたいつからそこに」
慌てて手に持っていた本を元の位置に戻して、彼女の方を向く。本棚に目を向けていた彼女が、私の顔を見る。彼女の首の捻りに追従する、流れるような長い黒髪が綺麗だった。
「私もよくするよ」
小さな口を開けて、彼女が囁いた。
「は?」
「私も本の匂い、嗅いだりする」
自然に彼女の鼻を注視してしまった。整った形をした、なんてことのない鼻。だけど目を逸らせそうにない。照明があるのに薄暗い部屋の中で、二人分の呼吸の音だけが聞こえた。

私と彼女は、友達になったのだと思う。きっと傍目に見せられる部分においては。長く、密度の濃い日々を歩んでゆくうちに、毎日一緒に昼ご飯を食べるようになったし、一緒に帰る仲になったし、いつだったか、彼女の家に泊まりにいって、同じ布団で寝たことだってある。
ああ、そうだ。私は友達だった。人形のようにかわいらしい彼女と。彼女自身を含めて誰も触ったことのないような、さらさらで指通りのよい髪や、暖かくていい匂いのする肢体や、舌を這わせるとびくりと震える首すじ。そのすべてを持った彼女と。
傍目に見せられないことは、すべて図書室の奥でした。
いつ行っても人気のしない図書室には、純粋に本を読みに行くことが殆どだった。でも時々、彼女の端正な顔立ちを歪めてやりたくなることがあった。そんなときに、決まって私は、私の隣りで同じように本を読む彼女の鼻を指の腹で優しく押した。すると彼女は困ったように微笑みながら、席を立つ。私は、強い征服感に声が漏れてしまいそうな程に興奮しながら、部屋の奥へと向かう彼女の後を追う。

ある日私は彼女の開け放たれた鞄の中に、B5サイズのノートが収められているのに気付いた。
丁度そのとき私達は放課後の図書室にいて、彼女は今日読むための本をまだ選んでいる最中で、二人の他にはいつものように誰もいなかった。
はじめは純粋にそのノートの匂いを嗅ぎたくなった、それだけだった。
するりと鞄から抜き取り、幅の狭い小口に鼻を微かに押し当てて嗅ぐと、冷たく無機質な匂いがした。暫く嗅いだ後、何気なくノートの適当なページを開いた。
結論からいうとそれは彼女の日記帳で、そこには皆といるときや、あまつさえ私と二人きりのときですら聞いたことのないような、彼女の思考や感情が綴られていた。

「深雪に鼻を触られると、自分が自分でなくなるような浮遊感に毎回襲われる。薄布に水分を含ませるように、からだの神経が浮遊感に支配される。でもそれを求めている部分もあって、その度に私は、深雪を必要としてしまう自意識を恥じてしまう。私という生き物は、なんとはしたない存在なのだろ」
読み耽っていた私の手から、必死な形相を浮かべた彼女にひったくられた。普段誰にも見せたことのないような、焦りや怒りの色彩が、その血の気の引いた表情に色濃く現れている。
「どうしてっ」
裂けるような、悲痛な声。いまや彼女は日記帳を両腕で強く抱き、その双眸には大粒の涙さえたたえ、荒い呼吸を繰り返して私を睨んでいた。
どうして私は彼女の日記を、そうと知りつつ読んだのだろうか。どうして彼女の心の内側に土足で踏み込んでしまったのだろうか。どうして私は、私の心は、いまになって急速に醒め始めているのだろうか。
胸裏に渦巻く自問のすべてに答えうるだけの答えは見つからなくて、代わりに私はいつも彼女にするように、彼女の髪を撫でようとした。
彼女は間髪入れずに私の手をはじいて、日記帳だけを抱えて図書室の外へと走り去ってしまった。
次の日、彼女は学校を休んだ。
その次の日も、彼女は学校を休んだ。
彼女の家を訪ねると、自室に引き篭もって出てこないと聞いた。部屋の前まで通してもらえたが、どれだけ声をかけてもなんの答えも返ってこなかった。
帰る直前に、また会いたいとだけ呟いた。

次の日、彼女は学校に現れた。しかし教室に向かうことはなく、その足で屋上に上がり、日記帳を抱きしめてそこから飛び降りた。
私に見せつけるように、腰まで届こうかというぐらいに伸ばしていた自慢の黒髪を、肩口のあたりで切り揃えて。

かみさまが、もしも私に魔法を使えるようにしてくれるならと、最近の私はそればかり考えている。もしも願いが叶うなら、魔法は一度だけで構わない。ただ、彼女の日記帳がほしい。
だって、いまはそうでなくとも時間が経てば、彼女が日記帳にしたためた言葉は、それはそれはいい匂いを放つようになるだろうから。とても甘く、それでいて懐かしい。

お弁当大作戦

私は彼のことが好きだ。
幼馴染で、家が隣で、元気だけが取り柄で、誰に対しても分け隔てなく優しくて、世界一かっこいい彼のことが。
だけど向こうは私のことをただの仲のいいお隣さんとしか捉えていないみたいで、ふざけあって笑うことはあっても、喧嘩していがみ合うことはあっても、親友の領域を飛び出すことはないみたいだ。
怖いくらい居心地のいいはずのこの距離感が、時々とても居づらくなる。

ある日、近い内に彼のお母さんが社員旅行だとかで一晩家を空けるらしいことを耳にした。私はチャンスだと思った。なにがチャンスって、彼にお弁当を作ってあげられることだ。
小さい頃のこととはいえ、一緒にお風呂にも入ったし、漫画の趣味も聴く音楽の種類もお互いわかりきった上に合わない私に、いまになってできることは料理ぐらいだった。簡単な料理くらいしかできない私だけど、ここで胃袋をガッチリ掴むことができたら、二人の距離は縮まるだろうか。期待に胸を膨らませながら、私はママに頼み込んで料理の特訓を始めた。


「おはよ、明久」
「おお、あかり」
特に約束するでもなく朝は一緒に登校する。当たり前の日常が嬉しい。流石に朝夕はめっきり冷え込んできていて、足を震わせながら歩く。それでも隣にはいつものようにのんびりと歩く彼がいるから、心は暖かい。
「ね、明久、お昼どうするか決めてる?」
胸の高鳴りを抑えて尋ねた。色々方法も考えたけど、やっぱり正面突破がいい。逃げも隠れもしちゃいけない。
「あーそっか、弁当ないんだった。学食かコンビニかな」
彼はこともなげに言ってみせる。一度だけ静かに深呼吸をして、一息に話した。
「私でよかったら、お弁当作ってきたけど」
彼が変なものを見るような目つきで見てくる。それはそうだ。普段から料理を作るわけでもない私が急にこんなことを言い出したのだ。
「お、おいおい、どういう風の吹き回し?」
「うっさいな。私だって料理くらいするもん」
「いやまあ、そうかもしんないけどさ。それちゃんと食えるんだろうな?」
からかうような彼の言葉に、へそを曲げてしまいそうになる。私が今日のためにどれだけ練習してきたと思ってるの。
「いらないなら、いいけど」
「うそうそ、いります、食わせてください!」
「最初からそう言えばいいのに」
もうこれだけで緊張と安堵によってその場にへたりこんでしまいそうだった。

昼休みになって、彼と中庭のベンチまで連れ立って歩いた。薄曇りの空からぼやけた太陽がまだるっこしく照らしてくれている。セカンドバッグからお弁当の包みを取り出すと、彼に突きつけた。
「小さくて足りなくても、我慢してね」
「おう」
「……美味しかったら、我慢しないで言ってもいいから」
「任せとけって」
「…………もしも不味くても、その、ちょっとは我慢してね」
「あのさあ、早く食べたいんだけど」

彼は待てないといったように急いで包みをほどく。
器の蓋をかぱりと開けて、彼が嬉しそうな声を上げた。だって彼の好きなおかずを、沢山つめたから。
お肉多めの野菜炒め、ちょっと辛めに味付けしたきんぴらごぼう、冷めても美味しいように昨日から仕込んだ煮物、そしてママ直伝の、ふわふわの卵焼き。きちんと味見もしたし、不味いはずはない。
彼に喜んでもらえることばかり考えていた。この数日はそればかりだった。とても充実していたなあと、いまに思えばしんどかったこともあったけど、とても小さいことのように思えた。
彼がきんぴらごぼうに箸をつける。私はといえば、とてもお昼ご飯を食べていられるはずもなくて、横目で彼の様子を盗み見ることくらいしかできない。
何度か咀嚼して、彼は飲み込んだ。そしてしばらく黙った。なぜ彼はなにも言ってくれないのだろうか。ひょっとして味付けが辛過ぎたのだろうか。内心穏やかでないあたしをよそに彼は今度は煮物を口にした。同じようにして飲み込んで、また動きが止まった。
「あの、なにか」
言いかけて、口を噤んだ。彼がこちらを向いたからだ。といってなにを言うでもなく、彼の箸は弁当箱の隅に収まった卵焼きを掴む。そして一切れを頬張った。何度か噛んで、飲み込む。それでも黙りこくったまま。
「なんとか言ってよ、お願いだから」
「すっげえ、うまい」
殆ど懇願するような形になった私の言葉に食い気味で、彼が漸く口を開いた。
「えっ」
「いままでに食ったことないぐらいうまい、」
最初は落ち着いていた彼の声が、徐々に震えてきているのがわかった。
「なんだよあかり、お前こんなに料理上手だったなんて、ああ、くそ、悔しいぐらいうまい!」
そういうや否や彼は弁当箱をかきこみはじめた。喉が詰まってしまうくらいの勢いで。
最初こそ呆気に取られていた私だったけど、徐々に自覚的に鳴り始める拍動が、頭の真ん中で踊り狂う大成功の文字が、目の前で幸せそうに食べてくれる彼の姿が、信じられないくらい嬉しかった。

あっという間に食べ終えてしまった彼の目線が、私のお弁当箱に注がれる。なにかを我慢しているかのような、苦悶の表情を浮かべて。私はつい嬉しくて、言ってしまう。
「よかったら、食べる?」
「いいのか!?」
間髪入れず返事が返ってきて、思わず苦笑する。そして手に持ったお弁当箱を差し出した。
好きな人の為に作ったご飯を、美味しいと言って食べてもらえることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。

「ごめんな、あかりの分まで食っちゃって」
「いいよ、別に」
「最高だった。まじで舐めてかかってた」
「ふん。当たり前じゃない」
作戦は大成功だった。のかもしれない。だけど、明日からまた昨日までの生活に戻ってしまう。これからご飯を振る舞うことはあっても、お弁当は無理だな、と思うと、少しだけ寂しかった。
私は彼にとって、美味しい料理を振舞ってくれる幼馴染になれただろう。だけどそれではまだまだ足りない。
先は長いなあ。だけど確かな手応えを感じたので、今日はよしとしよう。

「……あかりさえ、よければだけどさ」
彼が珍しく、どこか言いにくそうに話した。
「なに?」
「これからもちょくちょく、お弁当お願いしてもいい?」
反射的に彼の顔を見た。どこを見ているのかわからないその横顔は、だけど赤かった。
「な、なんで」
私も私で、素で聞き返してしまった。ほんの少しでも考えればそれがどういう意味なのかわかるはずなのに。
「だって、本当にうまかったんだ。あかりの弁当が」
茹でダコみたいに顔を真っ赤にしながら頷く以外に、なにもできそうになかった。
お弁当大作戦、大金星。

彼女と彼と危機管理

「ねえ」
「うん」
「あたし思うんだけど」
「なにを」
「ひとってすぐ死ぬよね」
「いきなりどうした」
「日常には色んな危険が潜んでるもん」
「いや、それはそうかもしれないけど」
「だからね」
「おう」
「シミュレーションをしようと思うの」
「色んな危険に対してか」
「そゆこと」
「展開が速すぎて」
「君も考えてね」
「はいはい」

「電車にひかれたとき」
「死ぬわ」
「死ぬね」
「たとえが下手くそ」
「そうかな」
「なんかこう、もっとあるだろ」
「蜂にいっぱい刺されたとき」
「死ぬってば」
「すぐ死ぬよね」
「違う違う、普段起こりそうなことを挙げてくれ」
「部屋にカミキリムシがでたとき」
「それがお前の日常かよ」
「死んだ」
「死んでねえだろ」
「あれ近くで見るとめっちゃこわいからね」
「出たのか」
「昨日家に帰ったらいた」
「そうだったのか」
「すぐ殺虫剤でやっつけた」
「死んだのカミキリムシの方かよ」

舞姫

現国の高校教材がこれまでにどれだけの変遷を経てきて、またこれからどれだけ経てゆくのかは私の預り知るところのものではないのだが、私が現役のそれであった頃の教材は森鴎外舞姫であった。はじめて目を通したときのことはいまでも思い出せる。古めかしさの匂う文字列が、その堅苦しさとは裏腹に違和感なく私の内側へと潜り込んだ。意志が薄弱であると評されることの多かった太田豊太郎の心情が驚くほど馴染んだ。いま思うに、彼の生きようは我ら学生に示されるべき大人を知る意味としてこの上なく有用であったように思う。正義や損得の感情で人間が動く生きものではないことを、私はこの本に見出せたと思う。この文章に目を通している諸氏の多くは既に舞姫を読んでいるだろうと思う。私は舞姫を未読の方よりも、一度でも読んだことのある方に、これを機会に再び読んでいただくことを願っている。いまいちど独逸の、遠い遠い異国での豊太郎の葛藤を味わっていただきたい。私の心の内に舞姫という物語は、橙がかった柔らかな光に包まれ仕舞いこまれているように思える。さながら有り得たかもしれない幾筋ものの未来が、残虐で一意的な解答を守っているかのように。

もしも、そのときは

「もしも僕が死んだら」
「やだ」
「もしもの話だから、大丈夫」
「それでもやだ」
不機嫌な顔をされた。彼女に死の概念を伝えようとしたが、早かったらしい。昼下がり、眩しいくらいの陽射しが窓から差し込んでいて、それを満身に受ける彼女は、花の妖精のようにきらきらと輝いている。死なんかとは対極の位置にいるように見える。

六人部屋の隣同士のベッド。お互いの名前なんて、名乗り合うよりも早く病室の入口に貼られたラベルで知っている仲だった。
彼女は左足の足首から先がない。聞いてみれば、彼女は指先から徐々に身体が腐り始める病気に罹っていたようで、進行を食い止めるには切断するより他になかったのだという。彼女には義足が与えられ、目下リハビリに奮闘している。早く学校に戻りたいと、会話をする度に弾むような笑顔で言われた。
「お兄さんは学校すき?」
「そうだね、優希ちゃんくらいの歳だった頃は好きだったよ」
「だよねー。あー、早く退院したいな。みんなに会いたいよ」
「もうちょっと頑張ろう。すぐだから」
「うん、お兄さんが退院したら私の学校を案内してあげよっか」
「僕はいいよ。もう大人だし」
「いいじゃん、たまには子供に戻っても。大人って疲れるんじゃない?」
少し背伸びをしたその言い方に思わず笑ってしまった。
「ああ、まあね」
「じゃあ、決まりね!」
「わかった、お手上げだ。退院したらお願いするよ」
たしかに僕はもう大人で、大人は疲れる生き物だと思う。だけど大人になることそれ自体は悪いことばかりでもなくて、その一つとして大人になってから、守れない約束を躊躇いもなくできるようになった。

診察を受ける為にリノリウムの床を歩く。不意に目の前の床が抜け落ちていきそうな気がして、足が止まる。自分でも馬鹿げてると思った。思い直して歩き始める。その一歩がとても重い。診察室までまだまだかかる。
何度となく覚悟を決めろと言われた。主治医は優しい性格で、笑顔のよく似合うお爺さんだったが、それを言うときだけは、少し厳つい表情になる。
ある日突然死ぬのだそうだ。それがいつかなんてわかることなく。いつ決壊してもおかしくないダムのふもとに立っているようなものだと言われた。運動をしても、ずっと寝ていても、ご飯を食べていても、食べていなくても、そんなことは関係なく決壊したダムに、溢れ出たどす黒いなにかに呑まれて死んでしまう。長い時間をかけて、僕の身体は、その至るところに腫瘍が巣食っているようで、まるで千切れかけた麻紐のように細っていく命がいつ事切れるかはわからないという。
それからはなにも思い残すことのないように過ごすようにしてきたけど、たまたま病室で隣り合った女の子は、そんな僕の思惑を打ち崩さんとする。
生きていたいとはもう流石に思えないけど、仲良くなった彼女になにも言わずに死んでしまうのは忍びないと感じるようになっていた。
しかし彼女は小学生とはいえど死というものを漠然と悲しいものだとは理解しているようで、話をしようとするとそれを察してか、聞きたがらない。
思えば僕は彼女に対して、死について開陳することで肩の荷を降ろしたかったのかもしれない。僕が迎える結末について、誰かに知ってほしかったのかもしれない。それが小さな女の子であれ、だ。怖くて仕方なかったのだと思う。黒いなにかに、ひとり呑まれるのが。

夜はなんの気配もなく訪れた。寝付きの悪い夜だった。空気に粘性があると思うほど息苦しかった。手首に指を押し当てて脈拍を測る。ぎりぎり読み取れるほどには血圧が下がっていた。発作だった。痛みというよりは苦しみだった。苦しみというよりは、悲しみだった。恐らく翌朝、彼女は死に対して明確な恐怖を覚えることになるだろう。底のない闇のようなものを感じるだろう。結局約束だって守れない。死の淵に立ってなお、彼女のことばかりが気にかかった。

「おにい、さん?」
瞼を擦りながら彼女が目を覚ました。僕は荒い呼吸を繰り返すばかりで返事ができなかった。
「しんどいの?」
「優希、ちゃん」
「うん、優希だよ。しっかりしてよ、お兄さん」
「これからする話を、よく聞いて」
「う、うん」
「もしも……」
目の前の彼女が、泣き出しそうな顔をしたので、言葉が詰まった。それでも振り切って続ける。僕は言わなければならない。
「もしも、僕が死んだら」
「やだよ、お兄さん」
「もしもの話だから、落ち着いて」
「……うん」
「そのときは、そっと忘れてほしい」
「できないよ、そんなこと」
彼女は目元に涙を浮かべた。これ以上心配させてはならないと、必死に呼吸を沈め、上体を彼女の方へ捻る。なんとか話せるぐらいには落ち着けている。
「ひとはいつか、必ず死ぬんだ。僕も、君も。でも死ぬことは怖いことじゃない」
彼女の目を見て伝える。
「怖いのは、それを受け入れて、そっとしておいてくれるひとがいないことなんだ」
「……どうして?」
「誰も……自分でさえも知らないうちに死んでしまうのは寂しいからね。誰もいない学校に行くみたいなものさ」
「……やだよ、行かないで」
「僕も行きたくない。死にたくないよ。でも、皆が通る道なんだ。皆、同じところに行くんだから」
同じ病室の誰かが電灯をつけた。ナースコールが鳴り響いている。それにかき消されないように彼女の手を握り、精一杯の笑顔を作った。
「もしも、いつか遠い未来そこで会えたら。そのときは学校の案内をお願いしようかな」
もはや零れる涙を気にもせず、彼女は手を握り返し、大声で応えた。
「絶対、絶対だからね!」
遠くから誰かが走ってくる気配がする。看護師や医者達だろうか。身体の中心の温度が引いていくのがわかる。
死ぬことはもう怖くなかった。

2015/09/08

時間があるのと、加えて興が乗っている面も応援してか、日記を書くことにした。
元来日記など書こうとしても続かない性格の人間である自分だが、それでも18歳の5月から数ヶ月間ほぼ毎日日記をつけていたことがあった。それはいまでも勉強机(家を出た兄のお下がり)の広い引き出しの中に入っていて、昨日久しぶりに読み返した。日記をつけることの一番の楽しみは、こうして思い出せなくなるほど時間が経ってから読み返すことだと思う。
文章を読みながら、このときからもう3年が経過しようとしていることに気付いた。少し驚いた。
当時は高校最後の年ということもあり、受験に部活にと大変だった、と思う。いまはもううまく思い出せない。宛ら古いVHSみたいな映像記憶だけがある。

自分の部屋のベッドに漫画や小説を山のように積みすぎて、今夏中はベッドの半分を書籍が占め、残りのもう半分を使って睡眠していたのだが、寝ながらいつ落ちるともしれない恐怖感から、冬用の掛け布団をベッド脇の床に敷きそこに枕とタオルケットを持ち寄って寝ている。床はやはり硬くてなんというかセルフキャンプ状態だが(これまでの人生で行ったことがない故に本当のキャンプを知らないが、何故かキャンプ先で寝るときは地面が硬そうな印象があるので)、これはこれで悪くない。書籍はおいおい片付けようと思う。

ここのところ数週間、毎朝路面電車に乗る。安い上に本数も多く、それはそれはとても快適な思いをしている。外に出るときには、行き先がどこであろうと路面電車に乗って走ってゆきたくなるほどには。だけど大抵の地面にはレールが敷かれていないので、それは叶わない話だった。そもそも安いとはいえそんなに乗るだけの電車賃を持ち合わせてもいないのだし。

一日がとても速い。とみに感じる。朝起きたらすぐ夜になってしまう。夜寝たらすぐ朝になってしまう。緩やかな下り坂を歩かされている気分になる。壁に突き当たって動けなくなるまでこの調子なのだろうか?

台風が接近していると聞いた。明日外を出歩くひとが、なるたけ怪我をしないことを密やかに祈りつつ、お酒を頂こうと思う。おやすみなさい。