可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

噓吐きは死にました

物心がつくころには、嘘というものを覚えていました。使役する理由も、また使役する内容もはっきりとせず覚束無いものでしたが、嘘というざらついた下地は、ほんとうというすべらかな下地と比べると、その摩擦が身を擦るのがえもいわれぬ快感に思えてなりませんでした。

嘘というものに求められるのは、内容のものではなくて吐く状況であることを知りましたし、その吐かざるを得ない背景がどのようなものであるかも、短くはありますが私の人生の中で知りました。
ですが元来、嘘は嘘。いかさまであることに間違いはありませんので、嘘を吐く人は吐かない人に比べて業が高い。生きている間はペテン師の謗りを受けるものです。人は皆死ねば平等なのに、使う言葉の内容があべこべであるだけでよくもそこまで言えたものだと私は感じておりますが、そう感じるのは私が噓吐きだからなのでしょうか。
なにはともあれ死すれば花。嘘を吐けなくなったらお終いです、世に未練など残りませんので首の一つや二つ、括って締めといきましょう。

私は友人や師、果ては生みの親にまで息をするように嘘を吐き続けてここまできました。最早嘘を吐くことに何の躊躇いもなかった筈なのに、どうしてでしょう、あなたを前にすると私の喉はきう、と閉まって、嘘だけが吐けません。あなたに嫌われたくないから、なのでしょうか。あなたの傍に居続けたいから、なのでしょうか。
ともあれ、私は嘘を吐けない身体になってしまいました。そんな自分自身の変容にもどかしさ、嫌気がさして、私はある日あなたに伝えてしまうのです。
私は噓吐きだから、あなたの傍に置いてもらう価値などないと。

あなたはけれど、笑いながら応えるのです。
君の言葉がほんとうだとしても嘘だとしても、自分には綺麗な結晶に見えてならない。君の使う言葉の煌めきも、確かに君自身なのだから、これまで吐いてきた嘘も、これから吐くだろう嘘も、それは確かに君自身なのだと思うよ。

噓吐きは死にました。