可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

どうせ死ぬのなら

「どうせ死ぬのならさ」
講義の始まる数分前に、彼女が縁起でもないことを言い出す。俺は左隣に座る彼女の方を向き、とりあえず言葉の続きを伺う。彼女はぼんやりと机の上を眺めている。
「思い残すことのないように、好きなことがしたいな」
「それはそうだな」
「だからさ」
「どしたの」
「好きなこと、しにいこう」
彼女が俺の服の袖を掴みながら立ち上がる。その後すぐに、それに追従して立たない俺に非難するような目線を送る。
「もう授業始まるけど」
「楽しいことは待ってくれない」
その一点張りだった。

制御工学という科目は期末考査手書きのノートの持ち込みを許しているので、あまり短絡的には休みたくはない教科なのだが、しかし俺の前を往く彼女にそれを伝えても授業には戻れないだろうし、俺が講義室を出て数秒後にチャイムは鳴り始めていた。
どうせ死ぬのなら。彼女の、何やら曰くあり気な切り込みから始まったこの旅は何処へ向かうのだろうか。死という言葉がちらつくあたり、少し彼女の様相も気にはなる。
校門を出て少し歩き、改札を抜けて普通電車に乗り込むまで、彼女は一言も話さなかったし俺も声をかけられなかった。
昼間の普通電車は当たり前だけど人が少なくて、窓から差し込む光が鬱陶しいほど眩しかった。

「これから何をするんだ」
「楽しいこと」
「というか、まず何処に向かってる」
「海」
辛い。帰りたい。どうして冬に海を見に行かなければならないのか。
「急に海辺に行きたくなったの、そんな気分なの」
彼女は俯いて、少し強い語調で言い放つ。表情は読み取れない。
「どうせ死ぬのなら?」
「どうせ死ぬのなら」
「お前は死ぬのか?」
「いつか」
「いつかって、お前な」

「夢を見たの」
人の少ない電車内。いつものように俺の左隣に腰掛けている彼女は、震えていた。袖を掴む手は白むほど強く握られている。
「夢で死んだのか?」
「君が」
「俺かよ」
間髪入れずに指摘すると、彼女は俺をちらりと覗いて相好を崩す。でもまだその顔は堅い。だからといってかけられる言葉も見つからない。もう一度沈黙は訪れる。

海辺に着いた。
潮風が漂う中、気候は良いとしてやはり季節柄か、人影は見えない。砂浜に降り立って、二人ともが立ち止まる。
「で、どうするの」
「しばらくしたら、帰ろっか」
目的地が海であることには何も意味が無いらしく、膝から崩れ落ちそうになるも必死で堪えた。
「なんで海なんだ」
「君と来たことがなかったから」
彼女は袖を掴む手を緩めて、俺の手を握る。小さくて冷たくて、懸命に掴んでくるものだから爪が刺さって痛かった。
「これは楽しいことか」
「見方によれば」
「おまえは楽しいか」
「そこそこ」
「じゃあ帰ろう」
「うん」

彼女の目は赤い。泣いていた姿は見ていないので、恐らく大学に来る前まで泣いていたのだろう。
俺が死んで、そこまで深く悲しんでくれるのだから彼女はいい人だし俺は幸せ者だ。女神と呼んでもいい。
もしも彼女が死ぬ夢を見たら、俺はどうするだろうか。夢だと割り切って忘れるか、はたまた彼女と山に登りに行くか。

「山だな」
「え?」
「また今度、山にも行こう」
「うん、うん、いいね」
彼女は可愛らしく微笑む。やっといつもの調子に戻ってきた。繋いだ手を振りながら帰り道を歩く。
そうだ。どうせ死ぬのなら、思い残すことのないように、好きなことをすべきなのだ