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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

なくした思い出

最初に違和感を覚えたのは、夕食のときだった。
「晩御飯できたよー」
ある週末にユキが家に遊びに来て、夕食を振舞ってくれた。彼女とはもう三年の付き合いになる。料理好きな彼女に、度々ご馳走になっていた。
「ありがと、いただきます」
「ん、いただきます」
二人で手を合わせて食べ始める。しばらくして気付いた。
「ユキ、これ、椎茸入ってるんだけど」
恥ずかしながらもう大人だというのに、俺には食べ物の好き嫌いがあった。どうしても椎茸を受け付けられなかったのだ。付き合いたての頃、彼女が茸のスパゲティを出してくれたことがあって、勇気を出して一口齧ってはみたものの、半泣きになって残した覚えがある。そんな俺の姿を見て彼女は呆れかえってしまったが、それ以来料理に椎茸をいれなくなった。はずだったのだが。
「あれ、椎茸嫌いだったっけ?」
きょとんとした彼女の様子から、わざと入れたわけではないように思う。こと、俺の好き嫌いに関しての話だし、苦手だと泣きついてからもう数年は経つので、忘れてしまうこともあるだろう、とそのときはそう思った。

しかしそれを皮切りに、あるいはもっと前から始まっていたかもしれないが、ユキは忘れっぽくなった。日常生活に支障をきたすことはなかったが、その度合いは日に日に高まっていった。心配になって、戸惑う彼女を無理やり連れて病院に行った。初老の医師は、訝しげに診察をした。それもそうだ、診たところに異常はない上に、他人である俺が彼女に診察させているのだ。念を入れて採血するために、ユキが別室に移動するのを見計らって俺は医師に相談した。

こんなことを言うと胡散臭く聞こえるかもしれないが、彼女はどうやら俺に関する記憶だけをなくしているようだと。すると医師は微かに表情を険しくした。

嫌いな椎茸を夕食に出して、二人で初めて観た映画を忘れて、彼女に貸していた小説の存在を忘れた。二ヶ月前に行ったアミューズメントパークを指して、一度こういうところに遊びに行きたいね、とも言われた。それ以外は何ら変わったことがなかった。思い返すほど、俺にまつわる過去だけがぽろぽろと崩れていってるようだった。
医師は俺の話を聞きながら、いよいよ眉を顰めた。そしてユキに、精密検査を勧めた。

人格型好意性欠乏症。それはほんとうに漫画みたいな病名だったけど、たしかにユキを蝕んでいた。好きなものを忘れてしまってゆく病気だと聞いて、暢気にも彼女は自分を好いてくれているのだと思って、束の間嬉しく思ってしまった。
唐突に、あなたは今までに臨死体験をしたことがありますかと聞かれた。なぜそれを知っているのだろうかと思いながら首肯すると、医師は恐らくそれが原因だと言った。
持病の脳貧血で自宅で失神していて、友人が連絡が取れないからと心配してくれなければ命を落としていたかもしれない、なんてことはあった。数日だけだが入院することにもなって、ユキにも心配をかけた。
それが、ユキに影響を及ぼしたという。不意に好きなものが手の届かなくなるところに行ってしまうと感じて、人によっては症状を発症ことがあるらしい。その症状こそが、好きなものにまつわる記憶を失えてしまうというものなのだ。いつか忘れてしまうものなら、いっそ自ら消してしまいたいと思うものだろうか。理解は追いつかないが、とりあえず病因が俺にあるかもしれなくて、彼女に申し訳なさを感じている間にも医師は話を続ける。何故か、さっきよりも顔が険しい。
「この病気は、完治します」
「治るんですか。よかった」
「いや、完治というよりは、進行というべきでしょうか」
「は?」
世界的に症例が少なすぎるから確証を得て言えるわけではありませんが、と前置いた先には、聞きたくもない事実が待ち構えていた。一度この症状を罹患すると最後、忘却は止まらることはなく、過去あったすべてを忘れて、そこで初めて病魔は彼女から離れるのだという。
「それくらい、大したことないです。もう一度彼女とやり直せば済む話じゃないですか」
胸をなでおろして俺は言う。もう一度出会う。もう一度恋に落ちて、愛を囁いて、生活を作り直せばいい。すべてを忘れてしまうほど彼女は俺を好いてくれている。それはきっと難しくないはずだ。だが、医師の言葉はどこまでも残酷に響く。
「十二分にそれは可能だと思います。前例がないというだけで」
「前例が、ない」
「言いにくいことですが、すべてを忘れた患者が、以後それに特別な興味を抱くケースは今のところありません」

ユキと病院を後にして、帰路に着く。
「ねえ、あたしって病気なのかな」
「……どうだろう、わからない」
「あたし、君のなにを忘れちゃってるのかな」
「いろいろと 、だなあ」
茶化すように、だけど小声になった。彼女は一度取り零したものを、もう拾うことができない。
「ねえ」
彼女の声が小刻みに震えている。少し前を歩く俺の袖を掴む。
「ぜんぶ、教えてよ。君のこと」
この世のどこかに神様がいたとして、いっそ彼女と出会うことがなければ、と嘆願することは傲慢だろう。

「ごきげんよう、俺のことまだ覚えてる?」
「あたしの好きなひと!」
「俺の好きなひとは?」
「あたしでしょう?」
「俺の好きな料理は?」
「オムレツ!」
「俺の好きな色は?」
「えーっと、オレンジだっけ」
彼女は、色を忘れた。
「んー、黄緑だな」
「そうなの?」
そういいながらユキは小さなノートを取り出す。書いてある内容に一通り目を通してから最新のページを開いて、そこにボールペンで「好きな色は黄緑」と書き付ける。彼女はそうして、忘れていったものを書く習慣を身につけた。
「ごめんね、また忘れてたみたい」
「いいよ、気にしないで」
「……あたし、オムレツ作るね!」
「ありがと」
大方の過去は、掠め取られた。ユキの中にはもう殆ど残されていない。

一度、彼女のノートをこっそり読んだことがある。丸まっちい字で、丹念に書き込まれていた。今の彼女が知らない、彼女と俺の思い出。それは何ページにも連なって書いてあって、読み進めていく内に、気が付けば俺は泣いてしまっていた。鮭のおにぎりが好き。シナモンが好き。○○という映画は一緒に観たことがある。寝言がかわいい。彼女が愛し、忘れ去った俺がいた。
いっそ出会うことがなければと、いつかの俺は願ったこともあった。俺は非情な現実から目を背けてきた。だけどユキは、だけどユキは。
彼女の想いの強さを痛いほど感じた。それを自覚する度に涙の雫が堰を切って溢れる。涙でノートを汚さないように気を付けていると、既に紙面には涙のような跡が点々と沁み込んでいて、そこで俺は初めて彼女の涙を見た。

「あたしは、君のことが、世界でいちばん、誰よりも、何よりも、絶対、」
その言葉はユキを護る盾なのだろうか。彼女を彼女たらしめる骨格なのだろうか。それともただの、ちゃちな祈りに過ぎないのだろうか。

「こんにちは、笹村さん」
「あなたは、えっと」
「佐伯です、はじめまして。わざわざ呼び出してすみません」
「はじめまして、佐伯さん。なにか、あたしに?」
「突然なんですけど、黄緑色のノート、B5サイズの。持っていますよね」
「……どうして、それを」
「理由は答えられないんですけど、どうしても俺はあれがほしいんです。よければ頂けませんか」
「あのノートは、あたしの字で書いてあるけれど、買った覚えも、書き込んだ覚えもないんです。内容も、読んでみてもよくわからなくて、ちょっと気味悪くて」
「ええ」
「でも、ごめんなさい。誰にも渡すつもりはないんです」
「……」
「絶対、手放しちゃいけないって思うんです。もしかしたらあたしが忘れているだけで、ノートには深い意味があるのかもって、考え過ぎかもしれないんですけど」
「そう、ですか」
「ほんとにごめんなさい」
「いいえ、いいんです」
「……佐伯さん、あの、どこか痛むんですか?」
「え?」
「その、涙が……」
「ああいえ、気にしないでください」
「そういえばあたしたち、どこかで会ったことありましたっけ。なんとなくそんな気がします」
「気のせいですよ、初対面ですし。きっとどこかですれ違ったんでしょう。覚えていないだけで」
「……そうでしょうか」
「そんなものです。それにしてもすみません、変な話をしてしまって。じゃあ失礼しますね」
「はい。今まで、ありがとうございました」
「……今まで?」
「……あれ、なんでだろ……おかしいですよね、ごめんなさい」
「……いえ、さようなら」

たとえば明日、自分の身に何かが降りかかるとしても、それを察知することも、ましてやそれを予防することもできない。
俺のことを忘れ去ってなお、愛し続けてくれているユキに俺ができることは、彼女のことをずっと忘れないでい続けることだけだった。これから先どれだけ時間が経とうとも、俺だけは彼女の想いに応え続けなければならない。
だが、どれだけ理性がそう訴えても、今日のうちは涙も止まってくれそうになかった。