可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

いっぱい食べる君がすき

暖簾を手でよけて、重い引き戸をスライドさせる。お世辞にも広いとはいえない店内にはカウンターに男性客が一人いるだけで、運が良い、今日は空いている。いつも座るテーブルに腰掛けて、上着を脱いで脇に置く。調理場の奥からおしぼりを手に、店主が現れた。
「あんたら久しぶりやねえ。仕事、忙しかったのかい?」
「ああ、どうも。先週は野暮用でね」
外の寒さですっかりかじかんでしまった手を湯気の上るおしぼりで暖める。 そうだ、本来なら先週ここに来るはずだった。
「注文はいつものでええんやね?」
女将が言うやいなや、俺の対面に座る千佳がすぐさま訂正する。
「あ、待って。今日は並じゃなくて大でお願い」
「あいよ、二つともでええの?」
「うん。あと、あたしの方には椎茸と長ねぎ、トッピング追加で」
「おっ、豪勢にいくねえ」
「今日は亭主の奢りだから」
得意気な顔で千佳が言う。
「おいおい、いつも俺が出してるだろ」
「今日に限って気前がええなんて……旦那、浮気やなんや、してへんやろねえ」
「そんなことするわけないって。単純に、先週ここに来れなかったのが俺のせいだっただけだよ」
「なるほどねえ」
女将とて本気で疑っているわけではないのだろう。俺の返答に、さもありなんといった表情で調理場へ帰ってゆく。ふと前の方から視線を感じて千佳の方を見る。お冷やを口に含みながら俺を見る彼女と目が合った。
「なんだよ、なんか顔についてるか?」
「んーん、別に」
「いや言ってくれよ、気になる」
「誠治は浮気とかするの?」
「はあ?」
「そういえばあなたってあたしの旦那だから、もしかしたら、もしかするのかなって」
「俺にそんなことできる甲斐性があるとでも?」
「……まあ、ないよねえ」

俺たち二人が店に来たときは、他には一人しか客がいなかったのに、注文を待つ間にあれよあれよと客が入ってきていて、今や店は満席状態だった。女将をはじめとして、従業員たちが忙しなく店内を歩き回る。店が空いていれば女将が話しかけてくることもあるのだがそういうわけにもいかず、妙な空気になってしまったまま話が途切れた俺たちのテーブルに生ビールが置かれる。
「それじゃあ、まあ乾杯」
「ん、乾杯」
ビールは注ぎたてが一番うまい。グラスを運んできたのはアルバイトの子だったが、恐らく注いだのは女将だろう。ビールと泡の割合、泡のきめ細かさ、どれをとっても申し分の無いビールを見ると、心が躍る。凍りつきそうなぐらい冷え切ったグラスをひと息に傾けると、黄金色の液体が喉元を駆け下りてゆく。反射的にくぐもった声が出る。俺と千佳しかいなければ、思うままに唸り声をあげているところだった。
千佳はというと、グラスに口をつけて、まず少しだけ泡を舐める。クリーミーさを堪能したあとで、一口分だけ。彼女はいつもそうやってビールを飲む。
間を置かずに料理が運ばれてくる。ぐつぐつ煮える音を立てる土鍋の中には焼き豆腐、薄くスライスされた牛肉、玉ねぎに麩など具材がぎっしりと詰まっていて、それに覆われ、沈みこんでいるのはうどんだった。好き焼きうどん。俺と千佳は、以前たまたま寄ったこの店のそれに心を奪われてしまった。それからは二週に一度のペースで食べに来ている。濃い出汁を存分に吸い込んだうどんを冷めないうちに啜る。コシのある麺によく煮込まれた具材が相まって、たまらない。しかし、確かにうどんは並の味ではないが、俺がこの店に千佳と食べに来るのには他にも理由がある。千佳を見ると、今まさに食べ始めるところだった。

天削げの割箸を水平にして、丁寧に割る。綺麗に分かたれた二本を、合掌した両の手の親指と人差し指の間に挟み込んで、束の間目を閉じ、いただきますと一言。
千佳が目を開き、箸を右手に持って見据える先には大きな土鍋。煮立ちつつある具材に箸を伸ばして最初に掴んだのは長ねぎだった。出汁に染まった手頃な大きさのねぎをつまんで、口元に運ぶ。二三、吹いたかと思えば次の瞬間には彼女の口の中に収まっていた。頬張る彼女の口の中からはしゃきしゃきという音が鳴っている。出汁は十二分に染み込んでいるのにこの瑞々しい食感。抜群の調理加減であることは、弛緩した彼女の表情からも窺い知れる。
頬に手を当ててねぎの余韻に浸ったあとで、次に彼女が目をつけたのは焼き豆腐だった。網目状の焼き色がついた豆腐が三つ、固まって入っている。その一つを十字に切り分けて、小さな欠片を掴んで口元に。ねぎと同様に数回吹いて、一口で食べたかと思うと、あふあふと言いながら口の中で豆腐をたらい回しにしている。まだまだ熱かったのだろう。咄嗟に俺のお冷やを差し出すと、すぐにそれを流し込んだ。
「ごめん、助かった」
「どういたしまして」
次の標的は椎茸だった。長ねぎは元から好き焼きうどんに入っているものだが、椎茸は違う。言わば特別メニューだ。常連だから頼めることなのだろう、小ぶりの椎茸が丸々二つ入っている。一度出汁に沈めて、より味を絡ませてから一口齧る。肉厚の傘に、小さな歯形がついた。彼女はゆっくりと噛み締めながら深く呼吸する。徐ろにグラスに手を伸ばして ビールを口に含んだ。それらを一緒くたに嚥下して、幸せそうに息をつく。彼女は実に美味しそうに食べる。
千佳は猫舌だ。だから、熱々のものをすぐに食べるのは苦手だ。千佳が少しずつ具材を攻めていく内に、徐々にあらわになったうどんが、店の照明を受けて照り輝いて見える。千佳は少しだけ冷めたそれを、他の具材ごと何束か箸で捕らえると、少し念入りに吹いてから、大口でそれを迎えた。箸で手繰り寄せながら、どんどん口に含んでゆく。それをビールで流し込む。歯応えのしっかりしたうどんだから、噛むのも一苦労だろう。子供みたいに頬を膨らませて味わう様のなんと愛らしいことか。

俺は千佳が幸せそうに食べる姿を見るのが何よりも好きで、それが千佳とこの店に通う理由の一つでもある。
この世の幸福を一心に浴びたように食べる彼女を見ていると、幸福をお裾分けされたように感じれる。願わくば、ずっと彼女の食べている姿を拝んでいたい。
「手が止まってるけど、食べないの?」
「ん、ああすまん、考えごとしてた」
「ふうん。それより、ねえ」
「どうした?」
「久しぶりだと、本当に美味しいよね」
「そうだな、やっぱりここが一番だ」
千佳の鍋を見ればもう中身は殆どなくて、俺の方はまだ少し残っている。そして千佳は、俺の鍋にちらちらと視線を送っている。大盛りだから普段よりたくさん食べてるはずなのに、なんて思って苦笑しながら、鍋を差し出してやる。
「俺の分、食べるか?」
「え、誠治はいいの?」
「俺はもういいよ」
「……じゃあ、もらうね」
千佳がおずおずと鍋を引き受ける。通りがかった従業員に、千佳の分の土鍋をさげてもらって、ビールを二つ、追加で注文した。それが届くまで、彼女の食べる姿を眺める。
「はい、ビールお待ちどお」
今度は女将が直接ビールを運んでくれた。もう忙しくないのかと思ったが、あれだけいっぱいいたのに、見渡してみればもう店には殆ど客がいない。食べている間に結構な時間が経っていたらしい。
「あんたらが来る日は、不思議とようさんお客来る気がするんよ。常連さんってのもあるし、このビールはあたしの奢りでええからね」
「お、太っ腹」
「誰の腹が太ってるやて?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「冗談やんか。そういえば先週は何があったん?」
「ああ、同窓会に呼ばれたんだ」
「せやったんか」
「でもこの人ったら、同窓会の日付間違えててね」
「ええ?」
「まあその、待ち合わせ場所で待ってたんだけど誰も来なくてな、間違えたと気付いたときには休日が終わってたわけ」
「そらあかんよ自分、千佳ちゃん寂しい思いさせただけやん」

女将がそう言うのと同時に、千佳の表情が曇った。調理場の方から誰かが女将を呼ぶ声が聞こえた。はいはい、と応じながら女将は消えていく。千佳を見る。手持ち無沙汰といった様子でビールを飲んでいる。そのまま見ていると、また目が合った。
「千佳」
「なに」
「今さらになるけど、寂しい思いさせたか」
「……してたら悪いの?」
「ほんと、ごめんな」
「もういいよ、今日ご馳走だったし」
「なんなら次から今日と同じのにしてもいいんだけど」
「それはいや」
「どうして」
「ご馳走は、たまに食べるからご馳走なんだから」
「そういうものか」
「そういうもの」

店を出る。重い引き戸を引いて出た先は陽も暮れきっていて、とてつもなく寒かった。二人で身体を震わせながら帰路につく。しばらく歩いて、ようやく腹を括った。
「なあ」
「んー?」
「もう結婚して五年ぐらい経つだろ」
「え、なにいきなり」
「特別な区切りがあるわけじゃないけどさ」
「う、うん」
「愛してる」
千佳が飛び上がって驚いた。
「へあっ?」
「なんだよその反応」
「え、あ、あ」
「あ?」
「あたしも……同じです」
「それなら良かった」
「ずるいよ、いきなりそういうの」
「いろいろ反省したんだよ」
「ふん。釘指しとくけど、浮気とかやだからね」
「俺にはもうお前がいるから、浮気なんてする必要ないが」
「……そうですか」
どちらから、ということもなく手を繋いだ。千佳の手は冷たい。それは、千佳が暖かい思いをしていることに他ならないので、我慢することにした。
「ずっと思ってたんだけど」
「ん?」
「なんで食べてるときにあたしの方を見てくるの?」
「可愛いから」
「いやいや」
「本当だって。見とれてんだよ」
「……何も出てこないよ?」
「嘘じゃないんだけどな。ああ、再来週が待ち遠しい」
「……あたしも、早く再来週になってあなたとご馳走が食べたいな」
「あれ、次からは戻すんじゃなかったっけ」
「うん、戻すよ」
「じゃあご馳走にならないんじゃないの?」
「ご馳走は、好きな人と食べるからご馳走なんだから」
「そういうものか」
「そういうものだよ、きっと」