可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

清い流れの中で

陽光を反射してきらきらと輝く水に浮かぶ肢体を見た途端、僕の心は、雲散霧消してその内の何割かは水に溶け込み、彼女の身体を纏うように。

彼女は最期まで水の傍にいたがった。病的といっても良かった。どこかに遊びに行っても、清い水の流れや溜まり場を見つけると、飽きもせず眺めたり触ったり、その場から頑として動かなくなるので、デートをするときは注意を払わなければならなかった。中でも神社の手水場や比較的に澄んだ小川を特に好んで、それを愛でる姿はたしかに愛らしいと言えなくもないのだけれど、それでも僕の理解は遠く及ばなかった。
彼女は泳ぐのも好きだった。元々はこちらが先だったのだろうと、今になって思う。水の中を舞う内に、水そのものの魅力にあてられたのだと。僕と彼女は初めてのデートでプールにいった。彼女がどうしても泳ぎにいきたいと言い、僕はというとそれに頷いてみせたというだけで、あまり泳ぐのが好きじゃなかった。僕が着替えを済ませてプールサイドにあがると、彼女は既に準備運動を始めていて、何往復か泳いでもよいかと尋ねてきた。これって初めてのデートなんだよな、と思いもしたが、駄目だとも言えない。
平日の午前だからか、利用客は少なかった。彼女はレーンの端で、水を掴むように泳いだ。水中をするすると進んで、ターンしてまた同じように。決して速いわけではなかったけれど、水の隙間に潜り込むように器用に泳いだ。そうして彼女はしばらくプールの端から端までを何度か行き来して、ようやくその動きを止める。
気持ち良さそうだな、と見ていて感じた。僕に向けられる彼女の表情が答えになっていた。
彼女はしばらくその場に浮かんで休息をとった。
その姿は、今でも覚えている。ただ一人の女性がプールに仰向けに浮かんでいるだけなのに、僕の網膜に未だに焼き付いている。その瞬間の彼女からは、絵画的な麗しさを感じた。彼女が引っ掻く水が立体と平面との間を交錯し続ける奇怪なオブジェのように映った。きっと彼女は水に愛されているのだと思った。僕が絵を勉強したいと思うようになったのも、趣味の領域を越えないまでも描き続けてこれたのも、すべては水に抱きかかえられて微睡む彼女に起因している。

病室は水分が少ないから嫌だ。これが彼女の述べる不満なわけなのだけれど、大抵の人はこれを聞いて首を傾げる。植物を活ける花瓶の横に、それとはまた別に水を注いだ小さなグラスが置いてある。昔、僕が彼女のために贈ったものだ。彼女はその器に水を飾っている。それを傾けたり、軽く振ったりして。僕は大抵、そんな彼女の様子を素描する。どうしてそんなに好きなのか、と聞いたところで意味はないだろう。僕が彼女の姿に惹かれたように、彼女も水に魅せられたのだろう。

「あたし、水葬がいいな」
今際の際まで、相変わらずだった。初めて出会った時よりか、幾分痩せたその顔に浮かぶ笑顔すら変わっていない。だけどこうして他愛もない会話を続けている今も、彼女は自身を巣食う病魔と戦っている。それは、彼女に繋げられた数多の生命維持装置が物語っている。


「佐伯さん?」
「ああ、失礼」
「休憩挟みましょうか?」
「いや、大丈夫。それで、なんでしたっけ」
「はい。あなたがそもそもこの道を目指すきっかけとは、何だったのかを」
「そうでした。僕がこの道を目指すようになったのは、ある女性のお陰なんです」
「恋人さん、ですか?」
「ええまあ、恐らくは」
「随分と含みのある言い方ですね」
「たまには芸術家ぶって、それっぽいことを言いたくなるんです」
「佐伯さんは水彩のカリスマです。あなたを差し置いて芸術家だとは、とてもじゃありませんが豪語できませんよ」
「ありがとうございます。そういえば彼女も僕の絵を見て、よく褒めてくれました」
「彼女というと、恋人さん」
「ええ。最初は彼女を描きたくて、絵を始めたんです。もう何年も前に彼女は亡くなりましたが」

何度かあの時の夢を見る。そんな朝はいつも、泣きながら目が覚める。記憶の中の彼女はもう殆ど思い出せなくなってきていて、遡ってもその姿は煤けて見える。
棚から手頃なグラスを取り出して、ミネラルウォーターを注ぐ。少しだけ、彼女を思い出せたような気がした。気紛れに、グラスを傾けたりして。