可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

或る月の光のよく届く場所

見上げた空から、月が見下ろしてくる。
夜は色濃く更け、外気が肌に絡みついてきて生温い。夕方に降った雨が湿らせた裏通りを歩く先輩は、ついさっきまで居酒屋でしこたま飲んでいたにも関わらず酔った気配を微塵も見せていなかった。
「わぐ君」
俺から見てきっかり三歩分だけ前で立ち止まって、芯の通った声音で先輩が俺を呼ぶ。
「どうしました」
「突然だけど、方言って古い言葉だと思う?」
本当に突然過ぎて、一瞬詰まってしまった。
「と、言いますと」
「方言って教養のない田舎の人が使う言葉だとかいうじゃない」
「古いと言い切ってしまうと語弊がある気がしますね。歴史があるとは思いますが」
そもそも方言とは標準語を前提にして、そこから派生した言葉遣いや語調を、その地方の俚言や訛りとして定めるんじゃないだろうか、と考える。なにかの授業で方言を取り扱うレポートでも書かされるのだろうか?
目の前に佇む疑問の持ち主の名をかのこさんという。勿論本名ではなく渾名である。彼女は長く艶やかな黒髪が魅力的で、一本芯の通った性格の人だ。そして、美しい。
俺の所属するサークルの幹部でもある。ちなみにわぐ、という俺の呼ばれ方も彼女と同じく渾名だ。
先輩は俺の返答を聞いても今一つな顔をするだけで、そのまま眉を顰めて唸り続けている。
「んー、だから、その」
俺の回答では納得には至らなかったようで、先輩は依然として険しい顔のままだった。
「じゃあ方言を話す人にはどんな印象を受けるかな。君の意見を伺いたいのだけれど」
「別に、なにも感じませんよ。その人が地方の出身なんだなと思うくらいです」
「そんなものなの」
「方言を聞くのは嫌いじゃないですよ。言葉の響きとか、聞いていて新鮮だし」
「ふうん」
「それで、かのこさん」
どうにも言葉の真意が読めなかったので、話の先を促す。
「方言が、なんなんです?」
先輩の顔がわかりやすく引きつる。普段からそんな表情を見せない先輩の反応なだけに面食らってしまい、どうしたものかと考えていると、先輩は遠慮がちに言葉を漏らした。
「少し、相談に乗ってもらえるかしら」

サークルの飲み会を終えて各自解散となったあと、俺は最寄りの駅まで真っすぐに向かっていた。少し飲み足りなかったので帰ってから飲み直そうか、なんて考えながら歩いていると、目の前を歩く先輩の後ろ姿を見つけた。泰然と歩くその姿はフランスかどこかの映画のワンシーンのように様になっていて、その後ろ姿だけで先輩だとすぐに気付けた。
話しかけよう、と思うまでは早かった。先輩とお近付きになれる絶好の機会だったからだ。だけど何を話したらいいのかが思い浮かばなくて、すんでのところで足が止まる。今までにも、おちゃらけた心持ちで先輩に声をかける男はたくさんいたが、その全てを先輩はひと睨みするだけで跳ね除けてきた。思えば先輩のそういう強さみたいなものに憧れを抱いたのが、先輩を好きになったきっかけなのかもしれない。そんなことをしみじみと思い返していると、いつの間にか先輩は俺の存在に気付いていた。そのまま流れで一緒に駅へ向かいながら話して、今に至る。
「相談、ですか。いいですけど」
それは願ってもみない誘いだった。ただ嬉しくて、声が逸るのを必死に押さえ込んだ。
「ありがとう」
「どこか店入りますか」
「私、いいお店知ってるからそこでいい?」
「大丈夫ですよ」
少し歩いた先にそびえるのは、瀟洒な雰囲気が漂ういわゆるBARというやつで、先輩の後ろに付いて扉をくぐると、橙色の照明に照らされた店内が前面に広がる。壁には英字の新聞やら額に入れられた小さな油絵なんかが飾り付けられていて、たった今自分がいるのは本当に日本かと、馬鹿らしくもつい疑ってしまった。先輩は店に入るなり店長と思しき妙齢の人物と二三、会話をしたかと思うと店の奥のカウンターの端に腰掛ける。俺は流されているジャズの音色や、垢抜けた空気の密度にすっかり気圧されていた。一拍遅れて隣の席に腰掛けると、先輩は意外そうな顔をしている。
「わぐ君はこういうお店、初めて?」
「そうですね、専ら自分は宅飲みなんで」
「お酒強い人?」
「弱くはないです」
「じゃあ適当に頼んじゃおっか。奢ってあげる」
「お世話になります」
「相談に乗ってもらうもの。そんなにかしこまらなくてもいいのに」
外国の酒を飲んだことがない、と言うと先輩は少し考えてから口を開く。
「マスター、ジャックダニエルを」
マスターと呼ばれた先ほどの人物はグラスを磨きながら頷いた。
「あと私にはいつもの」
少しの間をおいて、先輩が呟く。マスターはというと、なにも答えずに黙々と、しかし優しい笑顔で準備をしている。暫く視線を中に泳がせたあと、溜め息を吐くように先輩は少しずつ話し始める。
「副長の田之上君、いるでしょ?」
「ええ、はい」
俺の脳裏に浮かび上がるサークルの副長は、神経質で冗談の通じなさそうな人だった。先輩は手渡された琥珀色の液体を一口含むと憂いを帯びた声色で先を続ける。
「彼ね、方言が嫌いらしいの」
「そうなんですか」
「私、地方の出身でね、話す言葉にたまに訛りが入っちゃって。その度に嫌な顔されるのよ」
俺のすぐ右隣で先輩は標準語を話している。この言葉が意識して繕われたものだとすると、なんだかむず痒くなる。先輩はどこの言葉を話すのだろうか。少しだけ気になった。
「まあ一応、会計も幹部職だから田之上君と話す機会は多いんだけど、彼、方言を聞くたびに聞き取りづらいとか、古臭いからなおすべきだって咎めてくるから、いい加減嫌になっちゃった」
先輩が方言を話すと、どんな感じに聞こえるのだろう?
「わぐ君、聞いてる?」
「あ、すみません」
からん、と音がする。彼女のグラスは既に空になっていて、融けきれなかった氷が自分の存在を主張する。
「マスター、おかわり」
マスターが用意したグラスを受け取ると一度深く呷り、僕を見据える。心なしか目が据わっているように見えた。
「つまり彼は、方言を話す人は頭の堅い、古い輩だと言いたいわけ」
「いや、だからってそうだとは決まらないでしょう」
論理が飛躍している。
咄嗟に俺が静止すると、先輩が不機嫌そうな顔をした。またグラスを傾ける。頬が赤く染まってきている。
「決まるの」
「先輩、それは極論ですよ」
「そげん、言わんどってよ。わぐ君はうちの味方してくれんと?」
先輩の嘆息に混じって、聞き慣れない言葉が鼓膜を震わせる。つい先輩をまじまじと見てしまって、恐らく先程とは違った理由によって顔を赤らめながら、先輩はそっぽを向いてしまう。
「……こんな感じで、口に出てしまうの」
「ああ、そうなんですか」
それを言うのが限界だった。照れてしまう姿が、どうにかなるくらい可愛かった。普段は冷静に物事を把握して皆に指示を出す立場にいて周囲から尊敬の視線を集めている先輩が、酒の力も相まってか顔を赤らめて恥ずかしがる様子を見せるなんて思いもしなかった。ただ、その姿から、先輩が本気で困っているだろうことも見て取れた。
「あのね、先輩」
「なに?」
「方言を話すからって古い人間にはなりませんよ。要は気の持ちようなんですから」
「んあ?」
少しだけぼやけた瞳で聞き返された。駄目だ、可愛らしいが予想以上にアルコールが回っていらっしゃる。もう少し砕いて話さないといけない。
「あー、先輩、お生まれは?」
「……博多よ」
「博多弁だって方言なわけですけど、だからといって博多に住む人が皆、古臭い人間かと言われれば違うじゃないですか」
「まあ、そうね」
「もう大体察しはつきますけど、今日の相談っていうのは」
「……方言を使うのはあまりよくないんじゃないかなって気になってたの」
「たしかに田之上先輩は方言をよく思っていないのかもしれません。ですがあくまで彼の個人的な意見であるだけで、それが全てじゃあないです」
「でも、彼にばり言われよったんよ、うち、それでへこんどったと」
「田之上先輩が嫌いなだけで、実際は方言話す娘が好きな奴の方が多いですって。方言使っちゃ駄目って、そりゃもう言語統制ですよ」
誰だって自分の話したい言葉で話せた方が楽だろうと思う。抑圧されれば話したいことも話せなくなるだろうとも。言葉で伝えなければならないことはきっとあるし、そうしなければいけない日もいつか来る。
「そいならわぐ君は」
「はい」
「わぐ君の意見はどうなんと?」
「俺ですか」
「方言話す娘、好き?」
さっきから先輩はずっと俺の顔を見つめている。あれだけ早かった酒のペースもぴたりと止まり、顔つきも神妙になっていた。特にその眼差しには感情が色付いていて、媚びや愛嬌というよりは、縋るようなそれに近かった。目を合わせると、その色がより強くなる。堪えられなくて目を逸らしてしまう。
「いいと思いますよ、方言」
「ほんとに?」
「個人的にも好きだし」
「そうなんだ」
「それに先輩、方言で話してるときの方が気楽そうに見えますし」
「……まあ、故郷の言葉だもの」

そうして会話は途切れた。もう少し気の利いたことを言えていれば良かっただろうか、と内省するも、勢い込んでしまえば先輩の弱みに付け入って口説いているようにも映る。そんなことを考えずに形振り構わないでいくべきなのだろうか、と考えている間にもただ時間ばかりが逃げ去っていく。何かを言おうと思ったときにはもうそのタイミングは過ぎている。
先輩はグラスに浮かぶ氷を指でくるくると回している。俺は両の手を膝上に鎮座させて黙る他なかった。居心地が悪いわけではなかったが、空いてしまった間を埋める言葉が見つからない。駅までの道程で声をかけられなかった自分と被った。つい数分前まで偉そうに説教していたくせに。
「あんま喋らんけ、気分悪い?」
先輩が不安そうに尋ねてくる。
「あ、いえ、大丈夫です」
「そんなら、ええきね。相談乗ってくれてありがとね」
「全然構いませんよ。それよりどうして俺なんかに相談を?」
「わぐ君だけん」
「……それじゃ理由になってないですか」
「なっとるばい」
「あの、先輩、まあまあ酔ってます?」
俺が困って根を上げると、先輩は子供みたいに無邪気に笑う。やはりそれは普段の立ち振舞いと比べると想像もつかない姿ではあるが、その爛漫な笑顔に、思わず息を呑む。
「わぐ君も飲め、飲みゃわかっちゃ!」
「あーそうですね、そうします」
飲んでしまえば幾らかは楽になるだろうと思った。素面のままだと厳しい相手だろう。頼んだジャックダニエルにはまだ一杯も口をつけておらず、手に持てばグラスの表面に結露した水滴がやけに冷たくて、仄かなアルコールの香りが鼻腔をくすぐる。試しに一口舐めてみると、強烈な風味を感じた。喉元が少しだけ熱い。これを先輩は水を飲むような勢いで飲んでいたのだから空恐ろしくなった。洋酒を飲んだことがなかったので、その慣れない味に目を白黒させながら少しずつ飲む。
そんな俺の姿を、既に出来上がりつつある先輩が見逃すはずがなかった。
「男ならもっといかんと」
俺からグラスを取り上げて一口、こくりと可愛らしく喉を鳴らした。
「ほれ、わぐ君もこんくらい」
差し出されたグラスにジャックダニエルは半分も残っていなかったが、それでも思い切って飲むにはかなり勇気が必要だった。
「つべこべ言うない、飲まんね」
「ああもう、わかりましたって」
恐る恐るグラスを傾けた。すると先輩の手が、グラスを持つ手に重なる。
「ほーれ、いけ」
満面の笑顔と共に有無を言わせない力でグラスの角度を徐々に急なものへと変えていく。もう観念する他なかった。
それから俺は、方言の割合が目に見えて増えた先輩とサークルの裏事情なんかを延々と話し込んだ。先輩は肩の荷が降りたのか、ずっと笑顔だった。そして宴も酣になった頃、先輩が怪しいものを見るような目で見てくるのに気付く。
「わぐ君」
「なんすか」
「なーして君は、飲んでも酔わんと?」
「酔ってますって。外目にはわかりづらいだけで」
「なんちゃー、あほー」
先輩が子供みたいに肩を叩く。そして、控えめな欠伸を零す。今日はこの辺でお開きだな、と考える俺に、どうしてか不機嫌そうな声が掛る。
「わぐ君も、あとちっと酔いよったら都合えいのに」
「都合?」
頬を膨らませる先輩の、拗ねたような横顔。その顔が俺に向き直り、こちらに身を乗り出して、そのまま右の耳元に近付いてくる。俺はというと、突然の事態についていけなくて、体が動かなかった。
「言うときに照れんくなるばい」
「なにを、ですか」
耳がくすぐったい。
「わぐ君に言いたかことよ」
「……俺に」
「相談いうんも、ほんとのところは建前じゃったかもしれんね」
耳慣れない響きの羅列。すぐそばで発せられる甘い甘い、鈴のころがるような声。急に勢い付いた動悸に、体が震え、耳が痺れた。
とん、という音と共に、柔らかな質感。そしてすぐそばから漂う、果物のような香り。先輩のおでこが俺の肩に預けられている。髪の匂いはどこか懐かしいものだった。
「だめ、寝ちゃう」
ぱっと顔を上げて先輩が笑う。重そうな瞼を擦って、少しだけ下を向いていて。
「そろそろお店出よっか」
先輩が財布を持って会計を済ませようとする。
気付いた時には先輩の手を掴んでいた。
「先輩」
「んー?」
「俺も、先輩に言わなきゃいけないことが」
先輩の手は少し温かくて、世界一柔らかかった。
呆気にとられた様子の先輩は俺の掴む手を見て、それから俺の顔を見た。もう一度手元に目線を落として、嬉しそうに、本当に嬉しそうにはにかんだ。顔をあげた先輩が答える。

「うちも、わぐ君のこと、好いとうよ」
この笑顔を拝める俺は、きっと今、誰よりも幸せなのだろうな、と思った。
「これば、言いたかったんよ。わぐ君は?」
先輩の視線と俺の視線とが交錯して、絡み付いて、結ばれる。逸らされない瞳が不意に揺れたのを感じたのに、俺の瞳が揺れたのか、先輩の瞳が揺れたのかがわからない。握った手のひらの感触だけが、奇妙な現実味を帯びていた。
先輩の言葉に含まれた、も、という一文字。その意味は、考えなくとも理解できる。
俺だって、先輩のことが。
この気持ちはちゃんと伝えられるだろうか。掠れず先輩の耳に届くだろうか。怖気立つ感情を抑え込んで、一つのことだけを考えるようにする。
一度だけ息を吸って、俺は覚悟を決めた。