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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

塩をひとつまみ

「ねえ」
「んー」
「お腹空かない?」
「んー」
「でしょ。軽くなにか作ろうか」
「んー」
読みかけの本をたたむ。栞も挟んでないけど、何度も読んだことのある本なので別に構わない。雨降りの休日、お昼と夕方の中間地点で、私たちは二人きりで生きている。立ち上がりながら尋ねた。
「甘いもの系統?」
「んー、」
「じゃあ、そうね、スープとか」
「んっ」
「コンソメまだあったよね」
独りごちながらキッチンへ向かう。そういえば今日はお昼を食べてない。食へのプライオリティが高くない二人だから、しばしば食べることを面倒がってしまう節があって、野菜室を開いたその中には、白菜に玉葱に人参。
白菜から切る。ざくざくと軽快な音が鳴って気持ち良い。適当な量を切って、後は元あった場所に戻す。
「明日休みだっけ」隣の部屋に向けて言う。
「んー」
「じゃあさ、どっか出かけない?」
「……んー」
「疲れてる?」
「んん」
「そうではないのか」
「ん」
「たまには家でお菓子でも作っちゃう?」
「んっ」
「はいはい」
玉葱を少し粗めに切る。こうするのがお姫様の好みだからだ。人参を短冊切りにしようとしたところで隣から彼女がやってきた。すっぴんにスエット、適当に縛り上げた黒髪。気合いは抜けきってこそいるけど、元がいいから可愛く見える。それでも普段の彼女を知る人が今の姿を見たら腰を抜かすだろうな、とも思う。
「手伝ってくれるの?」
「みにきただけ」
「見学かい」
彼女はスツールに腰掛けて、上半身をテーブルに預けながら私が野菜を切る様を見つめている。切り終えた野菜を一度水にくぐらせてから、深型の鍋に入れて、サラダ油で炒める。水分を加える前にこうすることで、コクと甘みが増すらしい。
「明日なに作る?」
「んー」
「私が決めてもいい?」
「んー」
「果物系にしよう」
「……この前のやつ」
「タルトがいいの?」
「んー」
「ていうかさっきからなに、疲れてんの?」
「喋るのがめんどくさくて」
「なにそれ」
「美紗都なら通じるでしょ」
「そうだけどさ」
野菜がしんなりしてきた頃に水を加える。固形のコンソメを落として、ついでに胡椒も振りまいておく。そのまま少し煮立たせる。
ルームメイトに向き直る。だらしなく机にしなだれかかっていても可愛い。
「またセクハラされたの?」
「あのおっさん、ほんと嫌い」
「わかるけど」
「ほんと近くにいるだけで無理」
「嫌な上司を持ったね」
その小さな頭を撫でる。髪の毛がふんわりしていて暖かかい。
「スープまだ?」
「まだ」
「んー」
「拗ねないの」
窓の外は未だに雨で、今朝からずっと続いている。少しだけ真昼の明るさに陰りを加えたような色味が網膜に焼き付く。
「雨、やまないねえ」
「んー」
「なんか世界に二人だけ置き去りにされた感じしない?」
「そうだったらいいのにね」
「そんな寂しいこと言うんじゃないの」
「美紗都がいればいいよ」
白魚のような腕がするりとのびてきて、シャツの袖を掴んだ。止めていた手を動かして、今一度頭を撫でる。外の景色を見つめていた目が微かに細められる。
「スープ」
「あと少し」
「んん」
鍋の様子を伺いながら答えた。薄く黄金色に色付いた中で、くつくつと音を立てて具材が踊っている。できあがるまでもう少し。
「あ、そうそう思い出した」
「ん」
「そろそろ更新しないと」
「アパート?」
「また二年経っちゃったね」
「もう六年になるんだ」
「今回も普通に更新で構わないよね」
「ん」
「それとも、やめちゃう?」
何の気なしに冗談めかして言ってみたつもりだったけど、そう響かなかったのだろう、急に上体を起こした彼女に詰め寄られる。
「なんで。私とは、嫌になったってこと?」
私はすぐに否定した。
「そんなことないよ、冗談だって」
険しいぐらいに表情が固かったから、きっと怒られると思ったけど、そんなことはなかった。
「それなら、いいんだけど」
代わりに落ち込ませたみたいで、疲れた笑みを浮かべて、こちらに背を向けてスツールに座ってしまった。どうやら触れてはいけないところだったらしい。
「からかってごめん」
「気にしてない」
「唯」
「……」
「唯ってば」
「なに」
「頼むから、むくれないで」
「……しつこいかもだけどね」
「うん」
「美紗都がいるだけで、私はそれでいいんだから」
私の目には、彼女がカテドラルで祈る少女のように映る。罪を独白するように、ただ二人にだけ聞こえるような声音で。そしてその祈りを耳にする度に、私の中の仄暗い感情が喜ぶ。
相手に依存しているのはどっちの方だ。心中で呟いては、それを黙殺する。

祈り疲れた彼女の後ろから肩を抱いた。もうすっかり大人になりきったこの身体。それでも時折私には彼女が、一緒に住み始めた十八の頃の彼女と重なって見えるときがある。衣服を越して伝わる脈拍は儚くて、でもたしかにここにある。少しだけ腕に力を込めると、微かにくぐもったような嬌声が聞こえる。
身体をねじることでやんわりと私を振りほどいて唯は、私の正面に向き直る。幾分かは落ち着きを見せたその表情に胸を撫で下ろす。
「駄目」
口付けをねだる彼女をたしなめて、スープの加減を見る。見た感じはよくできている。木匙で掬って小皿に取る。それを唯に手渡すと、ひと息に飲み込んだ。
「味はそれでいい?」火を消し止めながら伺う。
「ん」
「なに?」
振り返るとすぐ後ろに唯が立っていて、私がなにかを言う隙も与えずに顔を掴まれ、口を塞がれた。舌先でこじ開けられて、そこに流し込まれたのは。

普通じゃないと言われるのが怖いから隠しているわけじゃなくて、二人だけしか知らないことに意味があるのだと、私はそう思う。彼女の方は、特段今までの関係に差し障りがなければ隠す必要はあまりないと言う。

「甘いよ」
塩をひとつまみ振りかけて、コンソメのスープは完成。