可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

時計針の刻む音

壁に掛けられた時計の針が午前零時を指した。
書きかけのレポートを片付けて、その場で座ったまま伸びをする。指先まで込めた力を抜いて、背もたれに身体を預ける。もう寝てしまおうか。俺はぼんやりと考える。
明日は講義が二限からなので朝は急がないけど、今日は少し忙しかったのでもう眠い。起きなければならない用事もないし、風呂は既に入った。特に迷うこともないまま、布団に身を委ねることにする。
寝る前に、数時間前に沸かした番茶を飲もうと思い立ち台所へ向かう。ガスコンロに乗せられた薬缶を傾け、湯呑に注ぐ。湯気が立ち上る。その場で啜りながら、シンクに目を遣る。温かいものを飲んだあとに自然と漏れ出る呼気に、僅かながら溜息が交じる。
午後六時頃に帰宅して、そのあと明後日に提出しなければならないレポートのことを考えながら夕飯を作っていたら、不注意からか、ずっと気に入って使っていた皿を落として割ってしまったのだ。破片が多量に飛び散ることもなく、皿が大きく三つに分かたれただけで済んだのが幸いだった。
実家で過ごしていたときから使っていた皿なだけに、割ってしまったことに小さくはないショックを受けたため、まだその破片を片付けることができていなかった。シンクの傍に積まれた皿の欠片を見るとまた気分が落ち込んできそうだった。今日はもう寝よう。そう思い立って布団に入ったはいいものの、体は疲れている筈なのにどうにも寝つきが良くない。暫く挑んでみるも、何度目かの寝返りの後に、あえなく布団から這い出た。心がざわついている。それはもう、目も当てられないほどに。
照明を点けないまま、いつも置いている場所からCasterと安物のライター、携帯灰皿をだけ持って、ベランダに出た。一本だけ吸う。いっそ酒でも飲んでやろうかと思ったが、さすがに勿体ないのでやめておくことにした。そうしてたっぷり甘い煙を取り込んでから部屋に戻る。ふと、今が何時なのかが気になって、足元のどこかにあるだろう携帯を探そうとするも、暗闇の中でそう簡単には見当たりそうにない。仕方なしに部屋の出入り口付近の照明のスイッチに手をかける。白色灯に照らし出される見慣れきった世界。時計が掛けられている壁の方向を一瞥して、照明を落とす。
もう一度照明を点ける。今度は落ち着いて確認する。時刻はあと十五分ほどで、午前零時になるところだった。
時計が壊れたかと思い、慌て気味で携帯を探す。すぐにそれは見つかり時刻を確認するも、時刻は変わらないままだった。
訳がわからないまま、布団の中で丸まる。きっと疲れているせいで時間を見間違いでもしたのだろう。そう考える他に自身を納得させる術はなくて、そうこうしている内にも、真水に希釈されるようにして意識は薄まりつつある。さっきとは打って変わって、暴力的なまでの眠気が思考を蝕んでいる。
次に目が覚めたとき、窓の外は夕焼けに赤く染まっていた。
今日の分の授業を不意にしたなと思いながら、それでもこんなにも眠れたのは久々のことだった。
喉の渇きを覚えて台所へ向かう。途中、視界にシンクが映り込んで思わず顔をしかめた。早く皿を片付けてしまわないと、俺の精神衛生上よくない。
覚悟を決めてシンクに立つ。しかしそこに皿はない。
昨日の夜更けから奇妙なことばかり起こっている。なにもかもがわからなくなって、俺は辺りを探した。テーブル、ごみ袋、玄関先やベランダまで。果たせるかな、そこに皿はない。途方に暮れながら、食器を収納する棚の扉を開ける。
どうしてだかそこに件の皿はあって、しかも割れ目はおろか、罅ひとつ入っていない。不可思議という他に、なんの言葉も浮かばなかった。
呆然と立ち竦んでいると、壁に掛けられた時計が刻む音がやけに大きく響く。こちこち、こちこち。
時計盤を見つめる。午後六時頃だった。兵隊のように規則的に秒針は動く。なんの疑いもなく、反時計方向に。
玄関の方で物音がする。誰かが扉の鍵を開けて、中へ入ってくる。