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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

あかりのはなし

なにもかもの決定が急なことだったので、家からパジャマを見繕うときに手近にあったスエットを選んでしまった何ヶ月も前の自分をいまでも恨んでいる。もっと落ち着いて探せばましなものはあっただろうに、いま僕が着ているスエットは胸のところにあろうことか草書体で洞爺湖と書いてある。ださいとかそれ以前に、意味がわからない。看護婦さんたちの間では洞爺湖君で通っている。最初は抵抗もあったけど、もうそれにも慣れた。
これだけ長く病院に居るのは初めてで、最初こそわざとらしい清潔感とか妙に馴れ馴れしい看護婦さんたちなんかが嫌でたまらなかったけど、すぐにそれにも慣れて、なんだかんだで居心地の良い空間になっていた。
これまではずっと検査を受けるか、寝るか、ブログを書くか、気晴らしにヒット曲をチェックするくらいしか日々の選択肢がなかった僕だけど、ついに入院九ヶ月目にして、割と重要な手術を迎えることになった。
僕の左目の後ろ側のあたりに悪い腫瘍が巣食っているらしく、それを切除するという手術なのだけど、どうやら腫瘍は視神経の大部分に癒着しているようで、ただ切ればいいという話ではないようだ。下手に切る箇所を誤ると失明するらしく、かといって失明を恐れて切らなさ過ぎても再発の恐れが拭えない。医者が勧めるのは、施術を何度かに分割して少しずつ様子を見ながら治療をするというもので、それはお金がいくらあっても足りないのでそれは真っ先に断った。
いま、僕の目は痛くも痒くもないし、目の奥にグロテスクな悪性の細菌群が集っていると言われてもピンとこない。でもこのままなにも処置をしなければいずれ腫瘍が転移して死ぬと断言された。だから僕は言ったのだ。医者に。視神経ごといっちゃって構わないので、腫瘍をすべて取り除いてほしいと。医者はもちろん考え直してほしいと言ったけど、視力は命には代えられないし、再発されても嫌だし、僕はもう視力なんてなくてもいけるかな、と思うようになった。そりゃあ、あった方がいいに決まっているけど、どちらともを選ぶことはできない。

その決断の報酬は、実の姉からの平手打ちだった。彼女は病室に入るなり泣きながら振り抜いた。部屋の中に綺麗な音が響き渡ったが、さほど痛くはなかった。それよりも彼女を泣かせたことに起因する胃痛の方が深刻だった。
「圭介はそれでいいかもしれないけど、じゃあこれから誰が目の見えないあんたの面倒見るのよ」
盲導犬でも迎えればいいかなって」
「仕事はどうするの」
「いま僕が継続的に担当している記事はないから、多分失業かな。目が見えないライターなんて意味ないでしょ」
彼女の表情は強ばっていて、涙を浮かべながら僕を見据えている。怒っているというよりは、憐れむような表情で。
「これからどうするの」
「当面は、リハビリかな」
「どうやって、生きていくの」
間髪を入れずに返される。ごまかしがまるで効かない。
「それは……」
続けようとして、なんの言葉もないことに気付く。
「お願いだから、考え直してよ」
そのまま僕と彼女は、面会の時間が終わるまで黙りこくってじっとしていた。
我ながらに仲の良い兄弟だったと自負していたので、彼女とこんなことになるなんて思ってもみなかったし、想像以上にこたえた。

その日の晩はなぜだか眠気が全くなくて、薄い月明かりの差し込む部屋の中で、することもないままに物思いに耽った。件のことについて、僕は何度も考え直した。普段使わない部分の脳味噌も使った気がする。そうして結論を出した。結論が出た後も、何度もそれを考え直した。
次の日、僕は担当の医者のもとに赴いて、再度、腫瘍をすべて取り除いてくれと念を押した。

僕が一九歳だったときの夏、両親が交通事故に巻き込まれて他界した。代わりに宛てがわれた遺産は、家の未納分の住宅ローンに注ぎ込まれることになって、手元に残された分はこれから二人で生活していくものとしては、心もとなかった。僕より五つ年上の姉は、大学を辞めて働こうとした僕を引き止めて、卒業までさせてくれた。学費の工面だけでなく日々の食事からなにから、彼女が僕にとって親代わりの存在であろうとしてくれていたのは、すぐにわかったし、僕はそれがとても嬉しかった。でも、それは彼女の人生を食いつぶすことを意味していて、実際当時の彼女は僕の学費を納めるために必要以上に働いていたし、度々体を壊してもいた。彼女は否定するけど、聞くところによると当時付き合っていた人とも別れたらしい。
僕は彼女にとってこれ以上ないくらいに邪魔な存在だったろうと思う。誰の目から見ても重い枷でしかなかった。たとえ彼女がそう思っていなかったとしても。
だから僕は就職を決めて会社寮に入る時にやっと、これからは彼女に恩返しができると思った。今までのお礼ができることが嬉しくて、必死で働こうと決意した。
そんな僕がもし一縷の望みにかけて手術を受けるとする。単に腫瘍を取り除くだけよりも施術の難度は上がるだろうし、手術の費用も嵩張る。僕だけではとても払い切れそうにない額になる。姉がそんな僕を見て、手を差し伸べないはずがない。親が子に施すように、彼女もまた、僕になんの躊躇いもなく施しをするだろう。また彼女を苦しませてしまうと考えただけで、それなら僕は死んだ方がましだと思えた。
手術の決定から暫くの間、色んな人が見舞いに来てくれた。会社の同僚も何人か来て、みんなは口々に僕を褒めたたえた。なんのことかわからなくて目を白黒させていると、社長がそこに現れて、僕に一つ、提案をした。

手術を翌日に控えて、その晩も僕は眠れそうになかった。満月だからか、月明かりが眩しい。眩しいという感覚も残り数時間のものだと思うと、少しだけおかしい。あかり、と一言だけ呟く。普段僕が呼ぶときに使う、姉の名前だ。綺麗な名前だと思う。優しい響きだと思う。ごめんなさい。ついに僕は、面と向かって彼女に言えないまま明りを失うことになる。彼女とは以前ここで会ったきり、姿を見るどころかメッセージのやりとりすらしていない。

病室の扉をノックする音が聞こえる。それからこちらの返事を待たずに誰かが入ってきて、僕のベッドの前で立ち止まる。あかりだった。
「あかり」
「なんでわかったの?」
「弟だから」
「そうなんだ」
「嘘だって。あかりの匂いがしたから」
「えー、そんなのする?」
「まあね」
「どんな匂い?」
「あんまりはっきりわかんないし、言葉にするのが難しい」

「じゃあ」
そこまで言って彼女はしばらく黙り込む。彼女の気配が近付く。僕はなにもしないままじっとしている。
「これならよくわかる?」
ベッドの上に座る僕の左隣に彼女は立っていて、その彼女に僕は抱きしめられていて、温かいし、柔らかいし、もうどうでもよくなるぐらい、いい匂いがする。どんな匂いかなんて、はじめからわかりきっていた。
「あかりの匂いがする」
涙がもうすぐそこまできている。

見えないということはその通りなにも見えないということで、目の上から包帯を巻きつけてはいるものの、この包帯を取ったからといって少しでも景色が映るということはないということだ。そんな当たり前のことを確認してしまうほどもう完全に僕の目は目として機能していなくて、それは実際に目を開けて辺りを見渡す以前に、感覚としてわかる。
自分が座っているのか寝ているのか、どんな姿勢でいて手や足がどんな向きにあるか。こんなことを考えたことなんて一度もないし、それがまったくわからないし、これからは四六時中考えなければならない。思ったよりも目の前の闇は濃くて、寝る前に目を瞑るようなそれとはまったく違う。僕は震えながら孤独を噛み締めた。独りで生きていく決意なら、何度もした。でも少なくとも今は、目の前の温もりが消えてしまうのがなによりも怖かった。

あかりはなにも言わず僕を抱きしめ続けた。声を上げてしまうのが恥ずかしくて、歯が軋むほど口をきつく噤んだら、後悔か恐怖か、或いはそのどちらもか、嗚咽が潜もる。彼女が背中を摩ってくれる。パジャマ越しに彼女の手のひらの形の体温を感じる。ああそうだ、もう今の僕には大きくプリントされた洞爺湖の文字すら読むことがかなわない。そう考えると少しだけおかしくて、笑ってしまった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。あかり、あったかいね」
「お姉ちゃんだもの」
「お姉ちゃんだもんな」
「ん。ねえ、圭介さえよければなんだけど」
「あー、それ多分よくないってこたえるやつだよ」
「家に帰っておいでよ」
「よくない」
予想はついていた。たとえ僕が彼女の頼みを呑むことなく盲目になったとしても、彼女はこう言うだろうと。これだけは避けなければならない。
「寂しいから一緒に暮らそうよ」
「でもこの先あかりが結婚したら、家で暮らすだろ。そしたら俺、邪魔になっちゃうじゃん」
「なんないよ」
「いまはそう言えるかもだけどさ」
「お付き合いしてる人もいないし、恋愛とかはもういいかなって思うの」
「その上でもだよ。あかりの人生はどうなる?」
「いいの。圭介さえいたら」
「だからなんで。またあかりの人生を縛るようなことはしたくない」
「家族だから。お姉ちゃんだから。それじゃだめ?」
「だからそれ以上に、なんていうか、」
「あたしね」
あかりが僕の言葉を遮る。腕の力が僅かに弱まった。
「圭介が産まれた日のこと、まだ憶えてるの。圭介、ちっちゃいちっちゃい子だったよ。すんごく可愛かった。それで、お母さんが言ったの。あかりはこの子のお姉ちゃんだよって。あたしは圭介のこと、天使みたいだって思ったの。あたしは天使のお姉ちゃんになったんだって思って、嬉しかったの。この先になにがあってもこの子を守ろうって決めたの。だから、だから、ね。それじゃだめかな」
あかりは話しながら泣いた。僕を抱きしめながら、子供みたいに。僕は彼女の腰に腕を回して強く抱きしめた。親の代わりとしてじゃなく、姉として、家族としての彼女を抱きしめて、僕も泣いた。

「圭介」
「なに?」
「あたしは迷惑だなんて思ってないから、一緒に帰ろう?」
「……」
「どうしても嫌だっていうのなら、お姉ちゃんを倒してからにして!」
「無茶言わないで」
「てへへ」
「……僕にもう視力は戻らないけど、それでも僕がいることに意味があるのなら、あかりのそばに置いてほしいと思う」
「うん」
「世話、すごくかけるだろうけど」
「お姉ちゃんに任せなさい!」
「と言っても、ちゃんと仕事はするし、生活費は収めるから」
「仕事って、なにを?」
「会社の方から連絡があって、コラムを担当することになったんだ」
「コラム?」
「ああ。音楽系の雑誌なんだけど、今まで連載してたコラムが終わったらしくて、その枠を僕と代筆者の二人がかりで新しく始めるんだ」
「へええ、すごいね」
「暇だったから入院中に個人的に書いてたブログの受けが良くて」
「ブログやってたこと、なんであたしに教えてくれなかったの!」
「そこかよ。いや、普通に恥ずかしくて。なんならあとで教えるよ」
「絶対だからね!」
「はいはい。取り敢えず、お金のことは心配しなくていいから」
「気にしなくてもいいのに。圭介ってへんなところ真面目よね」
「そうじゃなかったら、あかりの厚意に甘えられないし」
「ふふ。一緒に暮らすのを受け入れてくれただけでお姉ちゃんは満足だから」
「そんなに嬉しい?」
「うん。でもなんで最初は嫌がってたのに暮らすって決めてくれたの?」
「あかりに言われて改めて思ったんだ。僕らは家族なんだって。それも、仲の良い」
「だね。仲の良い」
「意固地になることなんかなくて、一緒に暮らすことくらい当たり前かなって」
「……そっか。当たり前、だもんね」

愛というものが本当にこの世の中に存在するというなら、それは彼女が僕に施してくれることのすべてだと思う。僕が彼女になにかを返せるとすれば、それは同じ愛でなくては、と思う。いま僕が彼女にできることは限られていても、いつか納得のいくまで彼女にお返しができたらと、切にそれだけ思う。