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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

あらしのよるに

何度、財布の中身を確認しても、お札が増えるなんてことはない。とはいえ、貯金や結婚資金の積み立てですっかり寒々しくなってしまった懐を見る度にそんな馬鹿らしいことをつい夢想してしまう。もっと贅沢に暮らしてみたいと思うけど、こちらが立てばあちらが立たない。いまは我慢、と自分に言い聞かせる。
来週末になれば彼女に会えるかと思うと、心が踊る気分だった。彼女と会うのは実に一ヶ月振りになる。お互い社会人駆け出しで一番忙しい時期とはいえそろそろ限界が近く、お金の工面はできても、こと彼女に関する我慢はまだまだのようだった。
晩秋に入ったその日は本州に近付きつつある台風の影響で、雨脚が強かった。
午後七時を越えたあたり、僕が仕事から自宅アパートへ帰り着くと、部屋の前に誰かが立っているのに気付いた。人影はこちらに気付くとたどたどしく歩み寄ってくる。切れかけた電灯のせいで辺りは薄暗く、人影が十分に近付くまで、僕はそれが雨で濡れそぼつ彼女であると気付けなかった。
どうしてここにいるのかを尋ねても、彼女は泣くばかりでなにも言おうとしないので、いま無理に訊くこともないと判断して彼女を家に上げ、シャワーを浴びさせる。少しして居間に姿を見せた彼女の変貌ぶりに、驚きを隠せなかった。
これほど落ち込んでいる姿を見るのは初めてだった。彼女は普段使いの座布団に緩やかに座り込むと、腕をお腹の前で組んでまた泣きそうな顔をするので、僕は少しでも彼女が落ち着けるように背中をさすりながら、僕になにかを伝えようとしている彼女の、いまにも消え入りそうな声に耳を傾ける。
気が動転しているからか彼女の話す言葉は支離滅裂で、文章構成もへったくれもなかったけど、根気よく声を拾い続けることでどうにか彼女が言いたいらしいことは伝わった。どうやら彼女は彼女の両親ときつい口論をしたらしい。非道い言葉をぶつけ、持つものも持たずに外へ飛び出して、ここに着いたという。
長い期間を共に過ごしてきて、彼女のすべてを知り尽くしたわけではないけれど、それでも僕は彼女のおおよそを知っているつもりではいる。彼女は人並み以上の知性を持ち合わせているし、特別、ご両親と仲が悪かったわけでもない。寧ろ関係は良好であったようにすら思う。だから口論なんて理由でこの天候の中、家を飛び出してくるなんてにわかには信じられなかった。
彼女はひどく悲しみ、そして怯えていた。それは実の親に対してはじめて働いてしまった非礼。頭を冷やし、幾ばくかの落ち着きを取り戻した彼女は、自身を省み、浴びせた言葉のその乱暴さに畏怖するばかりだった。しかしなによりも彼女を苦しめているのは、悲しみに暮れて尚、彼女の内で燻り続ける遣りようのない不安であるようにも見て取れた。
なにに対して、またどのように彼女が親と言い争ったのかは、ようとして知れない。しかし思い詰めた彼女の表情は、事態が深刻であることを物語っていた。
雨脚は今や信じられないほど強いものとなっている。
僕はどうにもしようがなくて、彼女の声が涙に曇ってゆくのを、肩を抱いて寄り添うことしかできなかった。なにか彼女のためにできることはないだろうか。考えど妙案は浮かばなくて、慰めの言葉くらいしかかけることができないのが口惜しかった。
遠雷が聞こえる。

「辛かったね、もう大丈夫だから」
僕の言葉を聞いた途端の、彼女の射るような目線は暫く忘れられそうにない。
「あなたにあたしのなにがわかるっていうの」
振り絞られた声が、僕の腕を払いのける彼女から発せられる。涙の滲む瞳の奥で、青い焔が長立っていた。
今にもこちらに食ってかかりそうな表情の彼女は、軽い嗚咽を交えながらも、僕を射続けた。そんな僕の驚く瞳を写して、にわかに彼女の視射が勢いを弱める。
「……ごめん」
目を逸らして、彼女が謝る。
その直後、なにかが爆発したような、衝撃に似た単純な磊音が僕らから少し離れたところで生じて、彼女は反射的に耳を塞ぎ、僕は衝撃でなにが落ちてきてもいいように彼女に覆いかぶさった。
間を置かず照明が消えて、嘘のような静寂が訪れる。驚きのあまり声も出せなかった僕と彼女は、その場その格好で身を固まらせたまま目が慣れるまで居竦んだ。
我に返って腕の中でじっとしている彼女に声をかける。
「大丈夫?」
「……なんとか」
「停電、かな」
「……みたいだね」
彼女を抱き起こしながら、会話は途切れる。ほどなくして沈黙が、それもとても長いそれが僕らを取り巻いて、四方から圧力を掛ける。自然、息苦しくなる。
「ねえ」
彼女が、分厚い本の頁を捲るように慎重に言葉を発する。語調は幾分か穏やかになっていた。
「うん、どうしたの」
「あたしのこと、好き?」
その声には未だに涙が滲んでいた。
「もちろん」
「どれくらい?」
違和感を覚えた。こういう類のことを彼女は言った試しがない。
「言葉では言い表せないほどかな、愛しているとも」
「具体的には?」
間髪入れず挟み込まれるその言葉に、いよいよ混乱する。眉を顰める僕に彼女は、おずおずといった様子で付け足す。
「結婚しても、いいくらい?」
僕は応える。
「ああ。だけど、結婚はもう少し先でもいいって、二人で決めなかった?」
勤め先は違うけど、二人とも定職に就いている。お互いに仕事が落ち着いて会社での立ち位置が定まるまでは、結婚は控えておこうと取り決めていた。
「そう、だね」
暗闇の中で彼女の輪郭はぼんやりと掴めるものの、表情まで窺い知ることは叶わない。だけど今の一言には、仄暗い不安が宿っているのが容易にわかる。思わず体が動く。愛しさ、というよりは義務感で。安心できるように優しく肩を抱く。
「あたしね」
「うん」
「妊娠してるみたい」

急激に動悸を感じた。
「……ほんとに?」
「……どうしよう、もうわかんないの」
仕事が忙しいことは理由にならないのかもしれないけど、夏頃から僕らは碌に会えていない。セックスだって満足がいくほどできていない。会えば必ずするわけでもない。だけどそれは、僕らの間で息を潜めている繋がりを確かめるための手段として有用だった。学生だった頃とは違う、お互いがお互いを慈しむ行為は、おこがましくも限定的な意味合いで聖性のような要素をはらんでいたし、紛れもなくそれを幸せと呼ぶことができた。だけどいつからか、形のない不安が僕らの周りを取り囲むようになっていて、それは一見無害なものなのに、ふとしたタイミングで爪を突き立ててきた。次第に僕らは、それから逃げるようにしてお互いを求め合った。
そしてその延長上で僕らは合意の上で度々コンドームを外してしていたし、中で果てたこともある。そんな生活が惰性で続けられていた。
「あたし、頭が混乱してどうすればいいのかわかんなくなったから、親に相談してみたの。生む生まない以前にどうすればいいのかを。そしたら目くじら立てちゃって、責任とか仕事とかどうするんだって怒鳴られちゃって」
「わかんないから縋る糸がほしくて相談したのに。向き合えないから尋ねたのに。でもそれも、避妊しなかったのが良くなかったんだよね。……ねえ、ここに命があるんだよ? 信じられる?」
そう言って彼女はお腹を摩る。
「中絶にしたってたくさんお金がかかるし。でもあたし達はまだ子供を必要としていない」
「答えなんて、本当はもう決まっていたのかもしれない」
いま思えば、僕らはお互いに良い関係でありすぎたのかもしれない。上澄みばかりを舐めあって、濁りきった澱から目を背けていたのかもしれない。数回、深い呼吸をする。鼓動がおかしいぐらい速くなっている。その言葉の意味する重さに眩暈がした。

「堕ろそうと、思うの」
緩やかな階段を降りていくように、彼女は告げる。息が詰まってしまった僕はなにも言えない。
「会社に入ってまだ数年も経たない奴が産休とか、馬鹿女の典型じゃない? やりたい仕事を前にして休みたくないし、あたしの親だって反対してるし、早い段階の堕胎なら赤ちゃんまだ生めるし、」
幼子が悪戯を弁明するような、彼女の口上は聞いているこちらの方が痛々しかった。言い分はもっともだし、遅かれ早かれ、 堕ろすという結論に至るのも仕方のないことなのだろう。
彼女の生理周期から安全な日を逆算して、していたつもりだったけど、物事に絶対なんてありえなくて、僕らはそんな間の抜けた配慮を免罪符にして、こんな生活を続けていると自然に膨らんでいく可能性を見て見ぬ振りをしていた。
僕は他方で、覚悟に近い意識を持ち続けているつもりだった。彼女のことを心から愛していたし、なにが起ころうとずっと傍にいようと思っている。快適でも彼女のいない生活か、決して楽ではない道のりでも彼女と過ごせる生活か。彼女が望んでくれさえすれば僕は、全てを投げ打つことだって厭わない。そう思えるだけの存在が、僕にとっての彼女だった。一ヶ月振りに見る寝間着姿の彼女。新たな命をその身に宿して、暗闇の中で泣き濡れるそのひとが、僕にとってかけがえのない存在だった。肩を抱く手に、ほんの少しだけ力を込める。彼女の体が強ばった。
「君自身は、どうしたい?」
「しらない」
「真面目に聞いて」
「……だって」
「僕らは向き合わなきゃいけない。体裁だけでなく、僕らの意思も含めて」
「あなたは、これからどうしたいの」
「僕は君に産んでほしい」
まっくらな中で、彼女の息遣いがやけにはっきり聞こえる。身を寄せてじっとしていると、僕と彼女との間に仄かに宿る熱が、形を持った幸せように僕らを包む。
「産むのは私だもの、何とでも言えるね」
後ろから抱き竦めているので、彼女がどんな表情で話しているのかすらわからない。微かに届く雨音と二人分の呼吸の音が響く。

「僕だけじゃない。君自身のためにも」
肩に回していた腕を解いて、手を下へ降ろす。お腹のあたりで折り重なる彼女の腕の、さらにその上から僕の腕を重ねる。
「結婚しよう」
数秒、彼女の呼吸が止まった。
「でもあたし、仕事も辞めさせられるかもしれないし」
「お金なら蓄えはある。もっとも、挙式は遅れるかもしれないけど……」
「あたしの両親だって賛成しないのに」
「そちらには一度挨拶に行ってそれきりだったから、もう一度伺おうと思ってる」
「あたしに産んでほしいって言いに行くの?」
「君を幸せにすると誓いに」
「……あたし、家追い出されちゃうよ」
「ここに住めばいい」
「そんなこと簡単に言うけど」
「君は」
彼女の声が途切れる。
「僕を頼りにしてくれた」
僕は、どうかこの思いがそっくりそのまま彼女に伝わってほしいとばかり願った。
「たしかに世迷言かもしれない。でも今こうして見栄をきって言う程、僕は本気だ」
彼女の頬を静かに伝う涙は、やがて僕の手に垂れ落ちる。
「自由な時間はもちろんなくなるだろうし、やりたい仕事も暫くは出来そうにないだろう。君の人生だから、僕がとやかく言えることじゃないのかもしれない」
間髪入れずに続ける。
「だから」
彼女は黙りこくったままで、重ねた僕の手を握りしめた。
「僕に君の人生の一端だけでも、担えたらと思う」
重なる掌が、指を絡め合うことによってより強固に繋がる。

不意に明かりが戻った。
「停電、直ったんだ」
彼女が振り返って言う。
そうだね、と返す僕の顔を見て、どうしてだか彼女は口元を綻ばせる。彼女の右手の人差し指が僕の頬をなぞる。そうして初めて僕は、自分もぼろぼろに泣いてることに気付く。泣き腫らした顔の彼女が、泣き腫らした顔の僕を見て照れくさそうに笑う。

「今ここにいること、無事でいることを親御さんに連絡入れなきゃ」
諭すように言うと、気まずそうに顔をしかめる。
「わかってるんだけど、気が重いの」
「こんな台風の日に外に飛び出したんだから誰だって心配するって。それが自分の子供で、加えて身重なら尚更」
「……うん」
電話をするために彼女は居間に繋がる廊下へと出る。数分後、彼女が居間に戻ってくるなり僕の前に座った。むず痒そうな表情をしている。
「君に近い内にあたしの家に来るように伝えろって」
「それって」
「本人の口から直接聞きたいんだって」
困ったような微笑み。溶けるような安堵に彼女は漸く迎え入れられたようで、そんな彼女の姿を見られただけでも良かったと思えた。
「わかった」
「すっごい怒られたけど」
少し間が空いて、ぽつりと彼女が漏らす。
「それよりももっと心配されてた。お腹の子供についても、ちゃんと話をしないとだね」
「僕らが親になる番か」
「……上手くいくよね」
彼女はほんの少しだけ不安そうに呟く。僕は楽天的に返した。不安がないといえば嘘になる。だから、未来に約束するために、ひと握りの願いを込めて。
「大丈夫、僕らなら」
「ありがとう、本当に」
「こちらこそ。話は変わるけど、いいかな」
「どうしたの?」
不思議そうな顔をする彼女に、僕は言う。
「もう一度だけ、きちんと言わせてほしい、僕と結婚してください」
そう言いながら僕は、後ろ手に持っているものを彼女に差し出す。彼女が電話をしている間に用意したものだ。本当はもっと後に渡すものだと思っていたけど。
彼女は息を呑んでいる。僕が蓋を開けると、彼女は指輪と僕の顔とを交互に見やり、相好を崩す。
いつの間にか雷雨は、緩やかなものになっていた。