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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

紫煙の奥に

運転席の扉を開けて車内に体を滑り込ませると、細切れになった煙草の香りがほんの微かに漂っている。エンジンキーを回して、まるでそうしなければならないことであるように、窓を開けた。儀礼的と言い換えてもいい。そこにはただ事実として、該当する装置を押す僕と、それに応じて開く窓があるだけだ。
季節としての秋は、あくまで世間的にいえば、瀟洒でいて風流なイメージを想起させるものだが、気候としてのそれは、もちろん暑くはなく、かといえ一枚では肌寒く、厚着をするには早過ぎる、些か過ごしにくい期間だと思う。車窓を開けるだけでは空気は動かないけど、といって空調を付けるに適した気候でもない。すっかり夜が深くなった住宅街の中で車を流しながら、全てに見放されている気分にさえなった。
僕らは二人だった。テラスで軽食を取るときも、共通の趣味嗜好に関して議論を交わすときも、いつも。彼女の話す言葉に頽廃的なニュアンスが編み込まれているのを僕は好ましく思っていたし、僕の思考の道筋の作り方や言い回しを彼女が気に入っていることも知っている。ただ、恋人同士かと問われれば首をひねらざるを得なかった。というのも、僕らは恋というものを知らずに大人になってしまったからだ。
友達と呼べる人達はいた。くだらない話で笑い合うことができた。ただ、僕が彼女と分かち合えるものを同じように彼らと分かち合えるとは思っていない。その点でのみ彼女とその他を区別する境界は形作られていて、別にそれは大仰なものではない。だけど、だからこそ僕はその境界を大切に見定めたいと平生から思っている。
彼女を愛煙家というのは憚られる。たしかに彼女はよく煙草を(それはもう、ほんとうに)吸っていた。しかし煙草が好きな人を指す意味として愛煙家という言葉を使うなら、やはり彼女をそうだとは呼べない。
最初に彼女が吸っていたのはCasterだった。それに対して僕は、ああ、この人はCasterを吸う人なのだな、と思うより他になんの感慨も湧かなかった覚えがある。僕も手持ちのJPSに灯を点けてぼんやりと考えを散らしていた。Caster特有の甘ったるい匂いが人気のない喫煙所に広がっていた。
「すみません、いいですか」
初めに話しかけてきたのは彼女の方だった。茶髪というには明るすぎる髪色が揺れていて、彼女の視線は僕の右手に注がれていた。
「はい」
「その銘柄、教えてもらっても?」
彼女と目が合った。銘柄を聞いてどうするつもりだろうと思いはしたけど、答えない理由はなかった。
JPSです。John Player Special」
JPS。どうもありがとう」
「はい」
彼女はたしかめるように何度か口にしながら喫煙席を離れていった。JPS自体は有名な煙草だと思うけど、周りでそれを吸っている人を僕は知らない。物珍しさから興味を覚えたのだろう、なんて考えながら思考の矛先は既に別のことに向かっていた。これが彼女に関する僕の最初の記憶で、どうしてだか今でも鮮明に思い出すことができる。

「隣り、空いてますか」
歴史学概論はテストを実施せず、加えて評価対象の約半分を出席に充てていて単位取得が簡単なせいか大教室で行われる講義なのにいつも人が多い。とりわけ意欲が高いとはいえない学生がこぞって後方に陣取るので、僕はいつも真ん中あたりで友達数人と固まって受講している。彼女が話しかけてきたのは、喫煙所で話してから数日後の、その講義が始まる数分前のことだった。
「どうぞ。この前はどうも」
「ありがとう。この前はどうも」
彼女ははにかみながらリュックサックを下ろす。栗色のセーターと髪の色味が似合っている。
「二回生だったんだ」
「うん、あなたもそうだったんだね」
社会学部?」
「うん。あなたは?」
「同じ」
「そうなんだ」
初老の教授が講義を始めた。操縦者を失って、会話は途切れる。僕と彼女はそれ以上話さなかったし、まずもって話す必要も内容もなかった。しばし平穏な時間は流れた。白髪の目立つ教授は壇上を行き来し、時には身振りを交えながらポエニ戦争について説明をしていた。僕は夕飯をどうするかを考えながら適当にノートをまとめ、スパゲティアラビアータに決まる運びとなり、隣りの彼女は細やかな筆致でルーズリーフを埋めては、窓の外に吹く風を眺めていた。
講義が終わり、出席票を教卓に提出して教室を出る。そのまま帰路につこうとして、はたと立ち止まり、思い直す。足先を喫煙所へと向けた。
大学構内には喫煙所が複数箇所設立されていて、四号館の裏の喫煙所にはまず誰も来ない。友達に煙草を嗜む人がいないため、煙草を吸うときは、人気がないことを理由にいつも四号館の裏だった。そもそも四号館という建物が人を寄せない。土だけで充たされ種を植えられずに置かれた鉢植えが周囲を取り囲み、棟内には所狭しと実験の機材や何がしかの書類が詰め込まれていて、講義では使われていない。
果たして彼女はそこにいた。初めて会ったときと変わらない様子で煙草を吸っていて、中に入るとJPSの香りがした。こちらに気付いているのかいないのか、彼女はぼんやりと前の辺りを見ている。
「友達になってもらえるかな」
敢えてこんなことを口にするのは初めてだったし、口にするほどのことでもないだろうし、もっといえば口にすべきではなかったのかもしれない。
「お願いします」
でも僕はこのとき言ってしまったし(また、恐らく言わずにはいられなかったし)、彼女は少しの間を置いてそう答えてくれた。僕は一本だけJPSに灯を点けて、吸い切る前に手帳を破いて携帯端末の番号を書き付けて、一度だけ手折って渡した。彼女はそれを受け取って、暫く俯いて眺めていた。僕は一度深く煙を吸い込んで、吸殻を灰皿に放り込んで喫煙所を出た。夕餉のために、ちょうど切らしていたはずだったパスタを買いにいかなければならない。

「悪い、その日は開けられない」
葡萄色の手帳を確認すると、週末は空いていなかった。本当は確認するまでもなく空いていないのはわかっていたが、手帳を確認する動作は相手へ納得を促すのに一役買うかと思ったし、個人的に手帳のカバーの触り心地も気に入っているので、手に取って頁を捲っては、さも気まずそうに言葉を返した。
「おい、合コンだぞ合コン。お前がそういうの好きじゃないのはわかるけど、なんとかならないか」
芳田が縋るような声を上げる。僕を見つめるその目には子供がものをねだるような感情と、その陰に明らかな苛立ちが見え隠れしている。たしかに合コンは好きじゃないが、今回は事情が違う。
「先約があるんだ」
「先約って誰だ。前に話してた娘か」
「その通りだが」
「なんだよ、抜け駆けかよ」
一言そう言い放つと、最早苛立ちを隠そうともせずに大股でどこかへ歩き去ってしまった。僕は手帳を閉じて、溜め息を吐く。理解が追いつかない温度差と、柔らかな手帳の表紙がやけに鮮明で、どこか覚えのある感情だな、と頭の片隅で理解しつつも、結局それがなんなのかはわからない。

十五分の余裕を見て目的地に着くと、既に彼女は駅前のベンチに座っていて、小さな背を僅かに丸めて、布製のカバーのついた文庫をさも大儀そうに読み耽っていた。そばに寄って声をかける。
「おはよう」
「おはよう」
「ごめん、待たせたかな」
「ううん、あたしいつも早く来すぎるきらいがあって」
「そうなんだ」
「気にしないで。それより、早く行こう?」
「そうしようか」
駅の前にある停留所から、バスに揺られること三十分。着いた先にそびえ立つのは、市が運営する美術館だった。
印象派展、ね。クロード・モネとかか」
「モネ、知ってるんだ」
「人並みの域を超えない程度にはね」
「モネはね、いいよ」
印象派というよりはモネ当人にお熱であるように聞こえるけど」
「うん。印象派なんて広い括りじゃなくって、モネの描く絵が好き」
僕は彼女と相性がいいのだな、と思う瞬間が度々あった。気のせいかもしれないし、自意識のせいかもしれないけど、彼女の伝えたいことがそっくりそのまま僕の耳を介して全身に染み込んでゆくような感覚にさえ陥る。感性の違いからか、僕が他の人に感じていたような、ボタンの掛け違いに似た齟齬は彼女には生じないだろうし、寧ろ奇妙な親愛すら覚える。
美術館を利用するのは初めてで、建物の中を流れる空気の冷たさや、例えるなら躾の行き届いた理性とでもいうのだろうか、抑制された緊迫感は、少なからず刺激をもたらした。美術館そのものが大きなキャンバスで、数ある作品らはそれに縫い付けられているマチエールのようで、彼女から美術館の感想を訊かれたときに、大体そのような僕自身が感じたままのことを答えたら、彼女は目を細めて頷いた。
美術館の外に据え置かれた喫煙スペースに立ち寄って、僕らは話の続きをした。僕らの中の芸術や趣味嗜好なんかの細部を紐解いていくうちに、気が付けば話題はお互いの掲げる人生観についてのあれこれになっている。長椅子の端に腰掛けてJPSを摘む。フィルタをくわえてライターを近付ける。オイルが少ないのか、火が点きにくかった。小さく息を吸いながら灯を点けると、僕の身体の内側を撫でながら煙が緩やかになだれ込む。煙は肺へと至り、呼気に乗って旅立つ。鼻腔を抜ける角の立たない風味が思考を綺麗に纏め上げてゆく。隣には彼女が座っていて、風に乗せて吹き流すように

死というよりは、より具体的な空虚さと隣り合わせでいる

と言いながら彼女も鞄から煙草を取り出す。それはJPSでもなければCasterでもなく、見たことのないパッケージで、縦に長い箱にGARAMと書いてある。
「それは?」
インドネシアの煙草」
彼女が小さな黒いライターで灯を点ける。嗅いだことがないほど強く、思わず噎せそうになるほど甘々しい香りがした。彼女が煙を取り込む度に、チリチリという断続的な燃焼音が鳴る。
「銘柄にこだわりはないのか」
「特には」
「美味しい?」
「とても」
今になって考えてみると彼女は、僕と会うごとに異なった銘柄を吸っているといっても過言ではないほど種類多く煙草を吸っていたし、時折僕がそれは美味しいかと訊ねると決まって彼女は、たった一度を除いて、とても、とだけ答えていた。まるでその言葉には思考の形跡が残されてはいなかったが、僕はそのことについて彼女が嘘を吐いているとは思わない。彼女は本当に美味しそうに、時間をかけて煙草を吸う。でも彼女の眼だけはいつも、なにかに(もしくは、何がしかを思って)悲しむような色をしていた。

死というよりは、より具体的な空虚さと隣り合わせでいる。
言葉は楔となって僕の記憶に刺さり続ける。

「ねえ」
布団の中から顔だけ出して、彼女が僕に言葉をかける。天井の木目から視線を彼女に戻して、その言葉の続きを待った。
「好きって、どんな感情?」
嫌悪というよりは鈍い痛みによって反射的に顔をしかめそうになった。できることならなにも話したくなかった。そういうことは人に教わるものじゃないし、教わって理解できるものでもない。大体、僕自身そのことについて、よくわかってはいない。時間をかけて、慎重に答える。
「そのことについて考えたときに、ずっと大切にしておきたいと感じたら、それはそうなんじゃないかな」
「人に対してのそれは、物に対してのそれと同じなの?」
「きっとそうなんじゃないかな」
僕は肯定からではなく、本当のところはそうであってほしいな、という願いを込めてそう答えた。こんなときにこそ煙草があれば、僕のいっさいを伝えられる言葉が降ってきたかもしれない。だけど手元には一欠片も残っていない。彼女は暫く布団に潜ったあと、また顔だけを出して、少しむず痒そうに照れた表情で僕に告げる。
「じゃあ、あたし、あなたのことがすき」
僕らは二人だった。

「はい」
頼まれていた缶コーヒーを手渡して、彼女の隣に座る。自分の分の缶コーヒーを開けて一口啜り、JPSを取り出して灯を点ける。彼女は自分の缶には手をつけずに僕の分を飲もうとする。
「それ甘いやつだけど」
「わかってる。ひとくち」
「いいけど」
彼女は少しだけ上機嫌に缶を傾ける。そしてそれを僕に返すと、自分の吸っている煙草のフィルタを僕に向けた。嗅いだことのない香りがする。
「お返しにひとくちあげる」
「これ、銘柄は?」
「death」
「聞いたことない。美味しいのか」
「とても」
僕は顔を近付けて彼女の持つ煙草を吸う。名付けられた死という直接的な言葉は、少しだけつまらない。いつも吸っているJPSより風味が乏しくて、だけど煙の重みは悪くなかった。一度だけ吸うと僕は彼女に寄り掛かった体勢を立て直し、煙を吐き出す。彼女はというと、ようやく自分の分の缶を開けていて、だけどそれには口をつけずに今度は僕の方に寄り掛かる。
彼女がなにを求めているかはわかった。
JPSのフィルタを差し向けてやると彼女はそれを吸い、ゆっくりと肺に溜め込んでから、惜しむように煙を吐き出す。そして僕は、彼女の瞳の奥を覗く。
悲しみを宿した瞳。涙の似合う、艶やかな瞳だ。深い暗闇の中を抗うことも叶わずに沈みこんでゆくような、光のない色を灯したその瞳が、僕を見透かしている。彼女はとても不安定な足場の上に立っていて、いつ崩れてもおかしくはない。それらすべてが彼女を構成していて、彼女のすべてがそれらによって引き立たされていて、宛ら一生かかっても触れ合えないような、高潔な彫像のように見える。
「美味しい?」
感情の震えを抑えて、僕はそう聞いた。子猫を撫でるように丁寧に、形を崩してしまわないように慎重に。彼女は目と口元を優しく歪めて答える。
「これが一番すき」
僕の中の、彼女に対する愛しさと恐れとが堰を切って溢れてしまいそうになる。

ある朝。それは本当にいつものように迎える朝となんら変わりのない朝で、昨日までと同じく僕は目覚まし時計が鳴る数分前に目を覚まし、シャワーを浴びて珈琲を飲み、新しくおろしたシャツに袖を通して、大学への道を歩いた。芝生の側を通って講義室へと。講義を終えて、食堂で軽食を。その日の課程を終えて、人気のしない喫煙所へと。一日を終えて、帰路につく。彼女が僕の世界にいないことを除いて、概ね世界は平常通りの運行を続けている。ある日を境にして、彼女は僕の前から姿を消した。いつも彼女が居るはずの場所には煤けた空気が漂うばかりで、だけど彼女を探そうとは思わなかった。理由があって僕の前から消えたというなら、探して見つかるような場所にはいないだろうし、彼女自身、探されることを望んではいないだろうから。

僕らは二人だった。たしかに共に過ごした期間はこれまでの、またこれから続く人生に比べてみれば、僕にとっても彼女にとってもはるかに短いだろうと思う。だけど僕は彼女と眺めた夜を、贈り合った言葉の一つ一つを、憂えた世界のさまざまをつぶさに覚えている。僕は彼女のすべてを覚えている。
僕はそれからの日々を、二人で堪えていた痛みを一人で請け負って歩いた。いつかまた遠い未来の僕が過去を省みたときに、その行為が無駄ではなかった、たしかに意味はあった、と思えるように。

年月を重ねれば誰しも大人になれるというのなら、僕はもう大人だ。彼女と過ごしていた頃だって年齢で見れば成人はしていた。だけど僕はあの頃の自分というものを大人だったとは思わないし、あれから幾年かが経過した今の自分も、どうだかわからない。あれから僕は大学を卒業して企業に勤め、そこで知り合った女性と結婚して、子供を持つまでになる。派手やかさこそなけれ、それなりに幸せな道のりだった。
だけど僕というものの一部は、今でもあの頃過ごしていた僕のままなのかもしれなくて、だから僕はまだまだ自分が大人だと思えないのかもしれない。

妻が煙草の匂いを厭うものだから、結婚してから煙草を吸う機会がめっきり失われた。彼女は頭も良く、世話好きに加えてよく気のつく性格で、僕にはとてももったいないほどの女性なのだが、ただ一つ注文をつける、というわけでもないが言いたいことがあるとすれば、もう少し喫煙に対して大らかであってくれればと思う。
詰め切れなくて残ってしまった仕事の処理というか、明日の仕事の量を見越しての事前準備というか、とにかく世間では残業と呼ばれるものを小一時間ほどかけて終え、喫煙スペースへと向かう。JPSに灯を点ける。夜が深くなり始めているからか、喫煙スペースには僕以外に誰もいなくて、人気のしない場所でJPSを吸うといつも思い出す人がいる。そうして、いつもそうするように彼女に関する幾つかの記憶を指でなぞりながら少しの間、灰を落とし続ける。
吸殻を置いて会社を出る。月のない夜だ。車に乗り込み、家族のいる家へと走らせる。僕を迎えるのはこの冬に五歳の誕生日を迎える娘と、優しく微笑みかけてくれる妻だ。
二人は、あたりまえだけど、在りし日の彼女のようにふとした瞬間に姿を消してしまうことはないだろう。あたりまえだけど、ある意味で子供じみた厭世観に駆られたり、今にも涙を零しそうな瞳で幸せそうに煙草を吸わないだろう。そして、あたりまえだけど、僕の吸っている煙草の銘柄を訊ねたりしないだろう。月のない夜だからか、どうも感傷的になってしまっていけない。

いつもはしないのに、無意識で車の中でJPSを点けてしまった。半分ほど吸ったところで自分のしていることに気付いて、慌てて灰皿で揉んだ。車に備え付けてあるデオドラントではすぐには匂いを消しきることはできないだろうし、これでは妻に怒られてしまう。小さく溜め息を吐いて、最寄りの薬局へ向かう。霧吹きの形状をした匂い消しを購入して、車内に吹きかける。近くの喫煙所に行って、灰皿を綺麗にするついでに一服をしよう。
今日のような月のない夜にも、どこかで彼女が煙草を吸っていることを切に願いながら。