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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

記憶売買

ひと二人が横並びで入れるぐらいの狭い路地の中ほどに、胡散臭げなその店は存在した。薄汚れた暖簾を潜ると中は狭く、スチールパイプの机と木製の椅子が居心地悪げに置かれていた。机を挟んで向こう側に店主らしき男が座っていて、僕の存在に気付いた彼は目の前にある椅子に座るように促した。ここまで来たのだから覚悟を決めなければならない。僕は本能的な恐怖から折れそうになる心を律して腰掛けた。
「ここがなにを取り扱う店なのかをご存知で?」
年齢のはっきりしない声音で彼が尋ねる。
「ええ。ひとの記憶ですよね」
「その通り。私は記憶の売買を生業としています。そしてあなたはその目的でここに立ち寄った、と」
それで間違いはないだろうな、と言外に問われた気がした。
「はい」
「それでは取引の話をしましょう。あなたはここで記憶を売却することが出来るし、またここに取り扱いのある中で他者の記憶を購入することも出来ます」
話が進みそうだったので、一度制した。
「あの、そもそも記憶を売るとか買うとか、本当に出来るんですか?」
噂でしか聞いたことがなかったので、真相をまずたしかめておきたかった。といっても男の方もこのやり取りには慣れているようで、
「皆さんたしかに最初はそう仰られます。ですのでここは一つ、実際にお見せしましょう」
そう言って彼は懐から小さな香水瓶を取り出した。そして二人の間にある机の上に置き、蓋を外した。微かに甘い匂いが漂う。
「突然ですが、あなたは昨日、夕飯を召し上がられましたか?」
質問の意図がわからなくて面食らってしまった。
「……はい」
僕はカレーライスを食べた。
「ではいまから目を瞑って、それを食べた時間帯や感じた味など、昨日の夕飯に関係することを思い出せる範囲で思い出してください。私がいいと言うまでです」
訝しく感じながら、言われた通りにする。頭の中で昨日の風景が像を結ぶ。暫くすると段々思考に靄がかかってきて、妙だなと思い始めた頃に彼から声をかけられた。彼は香水瓶に蓋をする。
「いまこの香水瓶にその記憶を閉じ込めました。質問です。昨日、あなたは夕飯になにを食べましたか?」
いまの一連の流れで出来るものかと思いたかった。それだけ簡単なことなら誰もこんな怪しい店にまで来ない。だけどそう思いながらも文句の一つも言えないのは、たしかに僕が昨日の夕飯について思い出すことが出来なくなっていたからだ。
「……どうして」
まったく思い出せないわけではなくて、朧げながら浮かぶような浮かばないような、そんな感覚がある。だけど、なにを食べたかは皆目見当もつかなかった。
彼は香水の中身を僕の目の前の空間に一度だけ吹き掛けた。その甘い匂いを嗅いだ瞬間、失われた記憶は鮮烈なイメージとなって去来する。カレーライスだ。感動といってもいいぐらいの衝撃だった。そうかと思えば、すぐにそのイメージは霧消してゆく。
「このようにして記憶を抽出します。吹き掛けることで再現された記憶は元々売却された記憶の長さにも依存しますが、少し時間が経てば使用者の記憶には残らず消えてしまいます。さて、売却と購入。あなたはどちらになさいますか?」
驚くばかりで考えがついていかないが、なんとか立ち直って答える。
「売却で」
「基本的に売却額は二束三文ですが、それでも宜しいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました、それでは」
彼は懐からまた別の瓶を取り出して、蓋を外して机の上に置いた。
「目を閉じて、可能な限り鮮明に思い出してください。あなたが十分だと感じたら、やめてください」
僕は思い出し始めた。

僕は売却額(本当に二束三文だった)を受け取った。男は記憶を閉じ込めたばかりの香水瓶をためつすがめつ眺めていた。
「あの、」
「続けてご依頼ですか?」
彼は目線だけをこちらに寄越した。
「はい」
「売却と購入のどちらを?」
「購入で」
「購入の場合、売却とは違い、少しお値段の方が張りますがそれでも宜しいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました。どのような記憶をお求めでしょうか。当店は現品一点限りですので、ご期待に添えない可能性もございますが」
「それを」
僕が指さしたのは、ついさっき手放した記憶だった。彼の表情が変わる。
「こちらはあなたがいま売却された記憶ですが、これで間違いありませんね?」
「はい」
「購入の前にお客様に一度記憶を体感して頂く決まりがございます。その代わりといってはなんですが、当店返品返金には対応しておりませんので、悪しからず」
彼が香水の中身を吹き掛けた。
光の粒が僕に降りかかるようにして記憶が呼び起こされる。一人の女性がそこには映し出されていた。二人で笑ったり、喧嘩したり、僕が忘れ去った思い出には、彼女との思い出がたくさん詰まっていた。
気が付くと僕は泣いていた。死別した妻のことを思い出していた。彼女にまつわる様々な記憶が苛烈に襲い掛かり、そして過ぎ去っていく。
「病気で逝ってしまった妻のことをいつか忘れてしまうのが怖くて、僕にはこうするより他に、」
誰に咎められたわけでもなく、言い訳のような言葉を並べようとして、その必要もないはずなのに躍起になった。男は子供のように慌てる僕を宥めて言った。
「ひとの死に関する記憶を売却される方は少なくありません。ですが私はその度に、忘れ去られた方を気の毒に思います」
「……」
「関わりの深いひとから死んだことを忘れられるというのは、幸せなようにも、不幸せなようにも感ぜられます。来店したあなたの思いつめた表情を見た瞬間から、よもやとは思いましたが、どうやら思い過ごしのようですね」
「……どういう、ことですか」
「あなたの奥様は旦那様に大変想われていたようです。なにせ、二人の思い出を色褪せないように保管しておこうとされるほどですから」
男は優しい笑みを浮かべるばかりだった。

「さて、お値段の方ですが、──円になります」
「……本当に?」
「値段を吊り上げすぎましたかね。見たところ素敵な記憶のようでしたので、高く設定し過ぎたかもしれません」
男の提示した額は、記憶を売却した額と同じだった。
「いえ、それで結構です」
「取引成立です。お好きにお使い下さい」
手渡された香水瓶を見つめる。僕の選択が果たして正しかったのかはわからない。でも後悔はなかった。
「あの、ありがとうございました」
「いいえ、私は出来ることをした迄です。それよりも記憶の処理にお困りであったり、劇場よりも劇的な体験をお求めでしたら」
男は怪しげに笑う。
「是非当店を、ご贔屓に」