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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

もしも、そのときは

「もしも僕が死んだら」
「やだ」
「もしもの話だから、大丈夫」
「それでもやだ」
不機嫌な顔をされた。彼女に死の概念を伝えようとしたが、早かったらしい。昼下がり、眩しいくらいの陽射しが窓から差し込んでいて、それを満身に受ける彼女は、花の妖精のようにきらきらと輝いている。死なんかとは対極の位置にいるように見える。

六人部屋の隣同士のベッド。お互いの名前なんて、名乗り合うよりも早く病室の入口に貼られたラベルで知っている仲だった。
彼女は左足の足首から先がない。聞いてみれば、彼女は指先から徐々に身体が腐り始める病気に罹っていたようで、進行を食い止めるには切断するより他になかったのだという。彼女には義足が与えられ、目下リハビリに奮闘している。早く学校に戻りたいと、会話をする度に弾むような笑顔で言われた。
「お兄さんは学校すき?」
「そうだね、優希ちゃんくらいの歳だった頃は好きだったよ」
「だよねー。あー、早く退院したいな。みんなに会いたいよ」
「もうちょっと頑張ろう。すぐだから」
「うん、お兄さんが退院したら私の学校を案内してあげよっか」
「僕はいいよ。もう大人だし」
「いいじゃん、たまには子供に戻っても。大人って疲れるんじゃない?」
少し背伸びをしたその言い方に思わず笑ってしまった。
「ああ、まあね」
「じゃあ、決まりね!」
「わかった、お手上げだ。退院したらお願いするよ」
たしかに僕はもう大人で、大人は疲れる生き物だと思う。だけど大人になることそれ自体は悪いことばかりでもなくて、その一つとして大人になってから、守れない約束を躊躇いもなくできるようになった。

診察を受ける為にリノリウムの床を歩く。不意に目の前の床が抜け落ちていきそうな気がして、足が止まる。自分でも馬鹿げてると思った。思い直して歩き始める。その一歩がとても重い。診察室までまだまだかかる。
何度となく覚悟を決めろと言われた。主治医は優しい性格で、笑顔のよく似合うお爺さんだったが、それを言うときだけは、少し厳つい表情になる。
ある日突然死ぬのだそうだ。それがいつかなんてわかることなく。いつ決壊してもおかしくないダムのふもとに立っているようなものだと言われた。運動をしても、ずっと寝ていても、ご飯を食べていても、食べていなくても、そんなことは関係なく決壊したダムに、溢れ出たどす黒いなにかに呑まれて死んでしまう。長い時間をかけて、僕の身体は、その至るところに腫瘍が巣食っているようで、まるで千切れかけた麻紐のように細っていく命がいつ事切れるかはわからないという。
それからはなにも思い残すことのないように過ごすようにしてきたけど、たまたま病室で隣り合った女の子は、そんな僕の思惑を打ち崩さんとする。
生きていたいとはもう流石に思えないけど、仲良くなった彼女になにも言わずに死んでしまうのは忍びないと感じるようになっていた。
しかし彼女は小学生とはいえど死というものを漠然と悲しいものだとは理解しているようで、話をしようとするとそれを察してか、聞きたがらない。
思えば僕は彼女に対して、死について開陳することで肩の荷を降ろしたかったのかもしれない。僕が迎える結末について、誰かに知ってほしかったのかもしれない。それが小さな女の子であれ、だ。怖くて仕方なかったのだと思う。黒いなにかに、ひとり呑まれるのが。

夜はなんの気配もなく訪れた。寝付きの悪い夜だった。空気に粘性があると思うほど息苦しかった。手首に指を押し当てて脈拍を測る。ぎりぎり読み取れるほどには血圧が下がっていた。発作だった。痛みというよりは苦しみだった。苦しみというよりは、悲しみだった。恐らく翌朝、彼女は死に対して明確な恐怖を覚えることになるだろう。底のない闇のようなものを感じるだろう。結局約束だって守れない。死の淵に立ってなお、彼女のことばかりが気にかかった。

「おにい、さん?」
瞼を擦りながら彼女が目を覚ました。僕は荒い呼吸を繰り返すばかりで返事ができなかった。
「しんどいの?」
「優希、ちゃん」
「うん、優希だよ。しっかりしてよ、お兄さん」
「これからする話を、よく聞いて」
「う、うん」
「もしも……」
目の前の彼女が、泣き出しそうな顔をしたので、言葉が詰まった。それでも振り切って続ける。僕は言わなければならない。
「もしも、僕が死んだら」
「やだよ、お兄さん」
「もしもの話だから、落ち着いて」
「……うん」
「そのときは、そっと忘れてほしい」
「できないよ、そんなこと」
彼女は目元に涙を浮かべた。これ以上心配させてはならないと、必死に呼吸を沈め、上体を彼女の方へ捻る。なんとか話せるぐらいには落ち着けている。
「ひとはいつか、必ず死ぬんだ。僕も、君も。でも死ぬことは怖いことじゃない」
彼女の目を見て伝える。
「怖いのは、それを受け入れて、そっとしておいてくれるひとがいないことなんだ」
「……どうして?」
「誰も……自分でさえも知らないうちに死んでしまうのは寂しいからね。誰もいない学校に行くみたいなものさ」
「……やだよ、行かないで」
「僕も行きたくない。死にたくないよ。でも、皆が通る道なんだ。皆、同じところに行くんだから」
同じ病室の誰かが電灯をつけた。ナースコールが鳴り響いている。それにかき消されないように彼女の手を握り、精一杯の笑顔を作った。
「もしも、いつか遠い未来そこで会えたら。そのときは学校の案内をお願いしようかな」
もはや零れる涙を気にもせず、彼女は手を握り返し、大声で応えた。
「絶対、絶対だからね!」
遠くから誰かが走ってくる気配がする。看護師や医者達だろうか。身体の中心の温度が引いていくのがわかる。
死ぬことはもう怖くなかった。