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可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

秘蜜の香り

かみさまが、もしも私に魔法を使えるようにしてくれるならと、最近の私はそればかり考えている。もしも願いが叶うなら、魔法は一度だけで構わない。それだけで私は永遠に救われる気がするから。

彼女と初めて出会った場所は、窓の小さな学校の図書室だった。幼い頃から本の虫だった私が高校に入学してまず向かったのは、図書室だった。どんな本が、どうジャンル分けされて、どれだけ仕舞われているのか。気になって仕方なかったからだ。
噎せるような本の匂いを嗅ぎながら、棚から棚へと見て回る。気になったものは引き抜いて数ページ流し読んで、その中から特に気に入ったものはいずれ読み返すために記憶に留めておくようにする。
誰も見ていないことを確認した上で、たまに本に鼻を近付けてみて、直に匂いを嗅ぐこともある。年季の入ったものなんかは、それはそれは甘く、懐かしい匂いがする。誰も見ていないことを確認するのは、その行為に背徳的な後ろめたさを感じているからだろうか。
辺りをざっと見回し、誰もいないであろうことを確認した上で、気に留まった一冊に鼻を近付ける。静かに吸い込むと、醸成した活字の匂いがする。そんな私のすぐ左隣りに、彼女はなんでもないようにして立っていた。
反射的に固まってしまった身体にたちまち訪れたのは、燃えるような恥ずかしさだった。
「どうしてっ、あなたいつからそこに」
慌てて手に持っていた本を元の位置に戻して、彼女の方を向く。本棚に目を向けていた彼女が、私の顔を見る。彼女の首の捻りに追従する、流れるような長い黒髪が綺麗だった。
「私もよくするよ」
小さな口を開けて、彼女が囁いた。
「は?」
「私も本の匂い、嗅いだりする」
自然に彼女の鼻を注視してしまった。整った形をした、なんてことのない鼻。だけど目を逸らせそうにない。照明があるのに薄暗い部屋の中で、二人分の呼吸の音だけが聞こえた。

私と彼女は、友達になったのだと思う。きっと傍目に見せられる部分においては。長く、密度の濃い日々を歩んでゆくうちに、毎日一緒に昼ご飯を食べるようになったし、一緒に帰る仲になったし、いつだったか、彼女の家に泊まりにいって、同じ布団で寝たことだってある。
ああ、そうだ。私は友達だった。人形のようにかわいらしい彼女と。彼女自身を含めて誰も触ったことのないような、さらさらで指通りのよい髪や、暖かくていい匂いのする肢体や、舌を這わせるとびくりと震える首すじ。そのすべてを持った彼女と。
傍目に見せられないことは、すべて図書室の奥でした。
いつ行っても人気のしない図書室には、純粋に本を読みに行くことが殆どだった。でも時々、彼女の端正な顔立ちを歪めてやりたくなることがあった。そんなときに、決まって私は、私の隣りで同じように本を読む彼女の鼻を指の腹で優しく押した。すると彼女は困ったように微笑みながら、席を立つ。私は、強い征服感に声が漏れてしまいそうな程に興奮しながら、部屋の奥へと向かう彼女の後を追う。

ある日私は彼女の開け放たれた鞄の中に、B5サイズのノートが収められているのに気付いた。
丁度そのとき私達は放課後の図書室にいて、彼女は今日読むための本をまだ選んでいる最中で、二人の他にはいつものように誰もいなかった。
はじめは純粋にそのノートの匂いを嗅ぎたくなった、それだけだった。
するりと鞄から抜き取り、幅の狭い小口に鼻を微かに押し当てて嗅ぐと、冷たく無機質な匂いがした。暫く嗅いだ後、何気なくノートの適当なページを開いた。
結論からいうとそれは彼女の日記帳で、そこには皆といるときや、あまつさえ私と二人きりのときですら聞いたことのないような、彼女の思考や感情が綴られていた。

「深雪に鼻を触られると、自分が自分でなくなるような浮遊感に毎回襲われる。薄布に水分を含ませるように、からだの神経が浮遊感に支配される。でもそれを求めている部分もあって、その度に私は、深雪を必要としてしまう自意識を恥じてしまう。私という生き物は、なんとはしたない存在なのだろ」
読み耽っていた私の手から、必死な形相を浮かべた彼女にひったくられた。普段誰にも見せたことのないような、焦りや怒りの色彩が、その血の気の引いた表情に色濃く現れている。
「どうしてっ」
裂けるような、悲痛な声。いまや彼女は日記帳を両腕で強く抱き、その双眸には大粒の涙さえたたえ、荒い呼吸を繰り返して私を睨んでいた。
どうして私は彼女の日記を、そうと知りつつ読んだのだろうか。どうして彼女の心の内側に土足で踏み込んでしまったのだろうか。どうして私は、私の心は、いまになって急速に醒め始めているのだろうか。
胸裏に渦巻く自問のすべてに答えうるだけの答えは見つからなくて、代わりに私はいつも彼女にするように、彼女の髪を撫でようとした。
彼女は間髪入れずに私の手をはじいて、日記帳だけを抱えて図書室の外へと走り去ってしまった。
次の日、彼女は学校を休んだ。
その次の日も、彼女は学校を休んだ。
彼女の家を訪ねると、自室に引き篭もって出てこないと聞いた。部屋の前まで通してもらえたが、どれだけ声をかけてもなんの答えも返ってこなかった。
帰る直前に、また会いたいとだけ呟いた。

次の日、彼女は学校に現れた。しかし教室に向かうことはなく、その足で屋上に上がり、日記帳を抱きしめてそこから飛び降りた。
私に見せつけるように、腰まで届こうかというぐらいに伸ばしていた自慢の黒髪を、肩口のあたりで切り揃えて。

かみさまが、もしも私に魔法を使えるようにしてくれるならと、最近の私はそればかり考えている。もしも願いが叶うなら、魔法は一度だけで構わない。ただ、彼女の日記帳がほしい。
だって、いまはそうでなくとも時間が経てば、彼女が日記帳にしたためた言葉は、それはそれはいい匂いを放つようになるだろうから。とても甘く、それでいて懐かしい。