可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

四月(3/4)

身体が重力を遠ざけた

より精確に描写するなら垂直抗力が霧散した

左足は虚空を踏み締め、傾く体幹は棒倒しを彷彿とさせる


「先輩!!」

右腕を掴む心許ない感触と眼鏡の奥に煌々と輝く瞳、圧倒的な生の脈動

強引に引き寄せられて空いた手を地につく
肩で息をする水瀬が掴み上げる俺の胸ぐら


巨大な鉄の塊が目の前を掠めていった瞬間俺と佐月とを繋ぐ糸のような何かが千切れ飛んだ

「死ぬとこだったんですよ!」

俺はその糸の切片をただ眺めていた

「聞いてるんですか!」

すまない、前方不注意だった

「……」

大粒の涙を目尻に浮かべて水瀬は荒い息のままこちらをじっと見つめる

「どこか落ち着ける、場所に行きましょう」

その語気に有無を言わせないものを感じ従う


死を間近にして、俺の脳は多少なれど興奮物質を分泌したのだろう

何をするでもなく小刻みに震えていた足も気にならず流れで俺は水瀬の後に続く

いつの間に夜になった道を歩く二人に浮かび上がる三日月

どこへ向かっている

住宅地を無言で突き進む前の女に声をかける

「私の家です」

だろうな
踵を返す

帰る

「駄目です!」

背後からシャツの裾をぐいと捕まれた

なんで

「死なれたら困ります」

死なん

「いいえ死にます」

なら死なせておけばいい

「そうさせない為に私の目に届く場所に止めておきます」

拒否する

誰に断ってそんなことをしていると声を大にして言ってやりたかったが声を大にする余力もなくて舌打ち

「拒否なんてさせません」

どうもそうらしい
抗うのにも疲れた

好きにしろ

「言われなくとも」

沈黙が、蔓延しはじめる、辺りに

自殺する気だったかと問われれば、そうだともそうではないとも言える

ただ確かなのは佐月に会えなかったということ、佐月に会う機会を失ったということ


本当にいいのか

「何がですか?」

よく知りもしない男を家に上げて

「犯行声明ですか?」

通論だ

「……先輩はそんなひどい男性じゃないでしょう?」

肯定はしない

「ですが、私のことよりも今は先輩が心配なので気になさらず」

なら俺に襲われても文句を言うなよ

「言いません。むしろ先輩ほど造作の整った人なら別に構いません」

参った
腹も減ってきたし



問答の直後に水瀬が立ち止まり指を指し見てみるとそれは変哲のないアパート、通されたのは女らしさを匂わさない小綺麗な部屋、204と記された室

勧められるままに座布団に腰を置き水瀬が熱い茶を出す

奇跡的に散らばることのなかった食材、それらの詰まるレジ袋を傍らに置き、果たしてこれが如何な炒飯になるだろうか、

「で、お聞かせいただけますか」

何を

「何かしら事情がおありならお聞かせ願います」

帰らせろ

「今は駄目です」

何故見ず知らずのお前に私情を話さねばならない

「今日入部したとはいえ藤堂先輩はサークルの先輩です。そこに見ず知らずという関係性はないです」

屁理屈はいい

「私が手を伸べなければ先輩は死んでいました」

……

「人の生き死にに関わることとあれば誰であれ心配するのが当たり前だと思いますが」

前方不注意だったと言った筈だが

「そうは見えなかったので」

……

「どうしました?」


個人的なものは個人が所有または領有するものであり、それは他者という観点において周く不可侵なものだとまでは言わないが、「個人的」という所以を考えないというのは論外だ


お前は

「はい」

自分の感性を重く判断基準においているようだが

「そんなことは、」

そんなことは独り善がりであり且つ欺瞞的だ

「……」

お前は止めるべきではなかった

「見殺しにしろ、と?」

そこに当事者の意志が存在するのなら

「命は一度きりなんです」

死を選ぶべきではないと言いたいのか

「進んで死を選ぶことは決して選択肢にはありません」

考えてからものを言え

「どういうことですか」

睨む目

中空で衝突する

誰もが生きたいと思える世の中じゃない

「それでも生きるのが人間です」

生に執着する意味がわからない

「人は意味を求めずに生きます」

意味を求めた俺は異端か

「はい」

では何故それが異端なんだ

「生に疑問を抱くからです」

ただ与えられた生涯を享受するだけが人生か

「そうです。それ以上に何を求めますか?」

俺も

口籠る

享受するだけの人間だった

「……」

何かを求め探しあぐねてもいなかった

「では、なぜ」

失った

「……何をですか」

喉の渇きを覚えた

意味を

言葉は重く、放たれた途端に沈む

人が意味を求めずに生きるのは十二分に理解できる

それは意識し始めれば最後収まる所が見当たらないからであって何ら不自然ではない


だがいつも側にあったあるものこそが俺の人生にとっての重要な〔意味〕だったとしたら

欠けて初めてその〔意味〕の重要性をその身に知らしめされたら

俺は自身が朽ちるまで意味を求め続ける

「その意味を失った今、先輩は何を探すんですか」

言う義理はない




「サークル長の荻野先輩、でしたっけ」

不意に目の前に居る女を空恐ろしく感じた

「その人、なんですか」

欠落する疑問符
しかしてそれは疑問の意を含まず

「後を追うつもりだった、と」

違う

「君のいない世界に意義はない、なんて感じで」

やめてくれ

「その死には何れ程の価値がありますか」

立ち上がる
ここから立ち去りたいと思う
殺してやりたいくらい腹が立つ
しかし
吐かれる言葉は全て自問した内容に重なっていた

「それを荻野先輩は望んだんですか!」

血が沸騰する

知らないお前が佐月を語るか

「私だって、小さい頃に家族を失いました、ですが、自分以外の人との別離はつきものです。前を向いて生きることこそ」

知った口を聞くんじゃない

「関係ない、だから干渉するな、そうやって塞いでばかりいるから、直視しないから先輩は死を軽んじるんです」

どうなりと言え、ただし

「そんな先輩を荻野先輩が見たら悲しみます」

佐月にだけは触れてくれるな


水瀬も立っていて、
堅く握られた拳が、それ自体が独立しているかのように小刻に震えている

帰る

唇はそう動いたが、声帯が絞られ過ぎて音にならなかった

瞬間

あれ、と感じた時点では既に遅く、黒ずんでいく視界の中で平衡感覚がずれていくのを知覚

なにかの箍が外れたらしい

まともな飯を喰わなくなってどれだけ経つだろうか
膝をつく
間を置かず手を床につくも、力が入らない

音が耳から静かに抜けていく
もどかしいと歯噛みするほど緩やかに、時は流れていく

体が意のままに動かない

蝕まれゆく意識の中で、先刻の水瀬の言葉がよぎる

「その死には何れ程の価値がありますか」

価値なんてない
ただ佐月に会いたいだけなんだ


それだけで構わない、俺の命なんざいくらでもくれてやる、


「ばか」
拗ねた声がする

「君の命なんてくれていらない」

奇妙な言い回し
その言い方が、嫌いだった



暗転