可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

内省的日記

 

 未来の自分に手紙をしたためたことがあるひとが、この文章に目を通すひとの中にどれほどいるだろうか。

 その大方は若気の至りに依るものかもしれない。自分だって、何年も前にはなるが、二十歳の自分に宛てて書いたことがある。二十歳をとうに過ぎたいまでも、時折読み返すことがある。例えば机の引き出しを整理するときなんかに、偶然目に留まったりして。

 手紙の中には書いた当時の自分がそのまま生きていた。あの頃打ち込んでいた部活動のこと、仲のいい先輩のこと、幾つかの悩みごと、好きだった女の子のこと。どこかで書いた覚えはあるのだが、こういった過去の手紙や日記は、書くその瞬間ではなく、こうして何年も経過した未来にこそ、読まれるべきものだと思う。

 昔の自分はどうしようもない阿呆だった。しかし毎日が充実していた。別にいまが楽しくないといえば嘘になるが、記憶の補正も手伝ってか、もう二度と戻ることができないというファクターの強さにやられてか、とにかく思い出すだけで幸せな気分になれる。

 過去の自分がこの記事を読む機会は、天地がひっくりかえってもないだろうけど、もしも目にしたとすれば、驚くだろうな、とは思う。何故ならいまの自分は過去のそれと似ても似つかないだろうから。本当に本人なのだろうかと疑うだろう。ときどき過去の自分と対話したらどうなるだろうと、とりとめもなく考えることがある。そういうことばかり考えてしまう。これもいつだったか、なにかに書き付けた覚えがあるのだが、どうやら俺は、絶対に起こり得ないことや、もうどうにもならないことに対して、思いを馳せたり、とにかく時間を割いてしまうきらいがあるようだ。

 備忘録のつもりでなにかに書くにしても、それをどこに書いたかを覚えていられないというのは、本末転倒ということではないだろうか。

 未来の自分にではなく、今度は過去の自分に宛てて手紙を書きたい。未来の自分は辛い辛いといいながらもきちんと生きているとか、大学生でもう一度女の人と付き合うことになるけど彼女は東欧に語学留学に行くし、まあ色々あって別れることになるとか、書く内容には困らないだろう。そう思うとこの数年は、自分が思う以上に起伏のあるものだったのかもしれない。それはきっと今後も続いて行くのだろう。もうどうにもならないことだからか、考えは湧き水の如くに止まらない。

 肉体ばかりが時間の流れに従順で、精神がそれに追いつくことができないままでいる。いまの自分の中の何割が当時の自分のままでいるのだろうか。気を抜くとまた、どうにもならないことを考え込んでしまいそうになる。蓋しそれが人生なのかもしれない。

 自分の中で当時の自分はまだ死んでいない感覚があって、じっと息を潜めているイメージがばかりある。当時の自分を知っているひとに会うときにだけ、俺の肉体に憑依して現れる。あの頃からなにを得て、またなにを失ったのか。考えることすら恐ろしいことだけど、きっと潜在的に答えは理解している気さえする。

 高度な精神がほしい。高度な、といってしまうと鼻につくような俗っぽさは否めないが、というよりこうしていま叫んでいるこの行為こそが、俺が嘆かわしく感じてしまう精神性の幼さを如実に物語っている証左なのだろうけど、ここにまで思考が辿り着かなければ理解に至れないというのだから、始末が悪い。

 自分の殻に閉じ籠もっている時間が増えた。内省はそれ自体、悪いことではないと信じているが、ものごとにはなににだって限度というものがあり、たまに自分はそれを逸脱しているのではないかと思うことがある。

 この記事にしたって、いつかの自分に向けた手紙のようなものだろう。恐らくそれは消さない限り未来の自分が読むことになるのだろうけど、そのいつかが楽しみで、それは例えば明日のようなすぐそこの未来なのかもしれないけど、だとしてなんの不満もない。

 手紙は相手に届くことに、その中に記した意味が伝わることに意味がある。例えそれがコンピュータ上の、液晶上のグラフィック、スプライン補間によって白色と黒色を塗り分けただけの記号の集合体に過ぎなかったとしても。そこに意味を込めたひとと、その意味を受け取ったひとさえいれば、それ以上になにを求めようか。

 明日も俺はなんでもないように生きるのだろう。過去がそうだったように。明日以降もそうして、過去を延長して生きていくのだろう。最後まで目を通していただいて有難う。つまらない文章で申し訳ない気持ちも大きいが。