可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

「CLANNAD」というものについて

相も変わらず就職活動は佳境であって、どこも落ち着いてなどいないのだけど、久々に自発的になにかを書きたい気分になれたから、興味が消えいってしまわないうちになにかを書き付けたいと思う。

皆さんは「CLANNAD」をご存じだろうか。知っているとして、それについての知識はどの程度のものだろうか。例えばそれをゲームが原作の作品であることを知っている方もいるだろうし、一時期インターネット上で流れた「CLANNADは人生」というスラングめいた文字列を知っている方もいるだろうと思う。

そう、「CLANNAD」というのは主に、タイトルにその文字を冠するとあるゲームのことをいい、少し時代は遡るが一部界隈では爆発的に流行したもので、本稿で俺がいままさに取り上げようとしている題材のことである。

 

CLANNAD」は「クラナド」と読む。恐らくその呼び方以外の解釈は存在しない。その名の由来までは知らない。

俺がそれについて知ったのは、中高生のころだったと思う。適当にインターネットをいじくっていると、「CLANNADは人生」というフレーズを目にした、というのが出会いであったように感じる。当時の俺は、特に興味を持つこともなく流したのだと思う。

ほどなくして、「CLANNAD」がPCゲームであるらしいことを知った。

そのころには、「CLANNAD」というものがどうやらプレイすると感動で泣けるゲームであるらしいことを知った。

きっと、人生観を引っ繰り返すほど泣けるから「CLANNADは人生」なんてワードが生まれるんだ、という程度に思ったが、このときも興味などは特に抱かなかった。

当時は、泣けるという謳い文句のついた映画などを観賞しても一向に涙の出る気配を感じなかった自分であるから、なにが人生だと笑い飛ばすばかりで、寧ろそんなもので転覆する人生観を馬鹿にする立場にいた。

 

そのゲームを購入したのは、大学二回の冬であった。

当初はプレイステーションVITAを購入したばかりで、大したソフトなどを持ち合わせていなかったので、中古のゲームショップをまわって、手頃なソフトを買い求めていた。

そして、そこにあったのが「CLANNAD」である。

元々はPCのゲームとして販売されたそれは、プラットフォームを変え、市場に出回っていたのだ。

それをゲームショップで発見して、一番初めに感じたのは、中古にしても値が張るということだった。他の新作のソフトと大して変わらない値段で売られているそれを見かけたとき、なんの気まぐれか、「一度やってみるかあ」と思って、購入したのが運命の分かれ道だといまにして思う。このとき、見向きもせずに他のゲームに手を伸ばしていれば、いまこうしてブログを書く自分もいないし、このゲームによって流れた数リットルの涙は、俺の体内を循環し続けたのだろうと思う。

 

値が張るということについては、「CLANNAD」がいわゆる普通のゲームとは異なり、主にテキストを読み進めてゆく形式のゲームであるということで説明がつくと思う。

すなわち、ゲーム内容におけるプレイヤーの役割が本でいうところのページめくりであるということで、いわばゲームの代金はシナリオ代になる。当然絵や音楽がつくので、単なる本とはまったく違う。このゲームはシナリオだけではない。

 

さて、そういった経緯もあって購入した自分であったが、すぐにはプレイしなかった。

買っただけで満足してしまって、プレイするまでには至らなかったのである。

そうして実に半年以上の月日がそこから更に経過し、大学三回の夏になる。

ついにゲームを始めるのだ。

 

突然だが、本稿では未だプレイしていないひとのことを考慮して、ストーリー内容については触れないでいようと思う。ストーリー内容に触れるのは別の記事にしようと考えている。ここで筆を置く。