可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

文体模写(6/11)

 「つまりあなたは、未だに手を付けてすらいないということね?」

 僕の目の前にいる彼女は、音叉を用いて音程に狂いがないかを確かめる神経質な音楽家のように、僕に尋ねた。尋ねたというよりは、意味合いとして、断定した。

 僕は鷹揚に頷く。というのも、その問いかけ――或いは、断定――に対して明確に肯定する心持ちではなかったからだ。もしも彼女が許すなら、僕は安易に頷いたりはしない。しかし、彼女の言葉自体に対しては、否定ができないのだ。

事実として僕の原稿用紙は、果たしてなにも、一文字も、点や線などの記号も、子供がするような意味合いを持ち合わせない何らかの模様すら描かれていないのだ。

 「頭の中には、大まかなビジョンがあるんだけど」

 注文したアイスコーヒーのまずさに顔をしかめそうになるのを苦心して抑えながら、それでも僕の言葉の響きは苦々しくなってしまった。それに、ビジョンなんてものも存在しないのだし。

 「わたしが考える、世にいう文筆家っていうのは、スタイルや書く中身に様々な違いはあれど、みんな形のあるなにかに文字を並べていると思うのだけれど」

 彼女は完全に隠すこともなく顔をしかめながらアイスコーヒーを啜り、続ける。

 「あなたは文筆家ではなかったのかしら。それとも、」

 僕は平手を目の前で振って見せて、彼女の言葉を制した。どうせこれに続くのは迂遠な言い回しでもって僕をじわじわと絞め殺すだけのフレーズに過ぎない。これは彼女の癖で、例えばAという事象を誰かに伝えたいとき、彼女はBではない、Cでもないと、25通りの否定の言葉を用いるのだ。

 「いま書こうか」

 それから鞄からA5サイズのルーズリーフと0.7mmのボールペンを取り出して、一度だけボールペンをノックし、用意した紙の左上辺りを何度かペン先で叩いた。

 「そうしようとしてできるなら苦労はないとは思わない?」

 「できるからそう言っているんだよ」

 彼女のクエスチョンマークに被さるぐらいのタイミングで、僕は返す。辟易したというにふさわしい表情で、彼女は僕を見据える。一体その表情の何パーセントが、アイスコーヒーによるものなのだろう。

 「これはあなたにとって呪いのようなものだと思うのだけど」

 「呪い」と、僕は言葉を拾う。

 「そう、呪いよ。刻印のようにあなたに埋め込まれているように思えて仕方がないわ」

 「一体それはなにについての呪いなんだろう」

 僕はそう尋ねたが、彼女はもう僕にまつわる呪いに関しての興味を完璧に失えてしまったようで、頬杖をつきながら僕の持つペン先を眺めている。

 アイスコーヒーはグラスにまだ半分ほど残されていて、どうも僕にはこれが負の遺産のような気がしてならない。