読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

関東旅行記1

二月末から三泊四日で関東へ旅行した。
その際に起こったことや、それに起因して発生した感情などを、一文字でも多く形として残しておこうと思い立ち、にわかに書き始める。
乱文や乱調となること請け合いではあるだろうが、これは備忘録であり、フィクションではなく、それでいて自分の頭の中にしか存在しえない物語の写しなのだ。

ことの始まりは、一月の終わりごろだった。
高校時代の友人とLINEでやり取りをしていると、彼が三月あたりに旅行に行くつもりだが、一緒にどうだろうかと声をかけてくれたのだ。

この彼と、実は一年前にも旅行をしたことがある。そのときの行き先は九州だった。
その彼が、有難いことに今年も誘ってくれたのだ。
元来集団行動は面倒だと感じ、一人、乃至、気の合うひとと二人ぐらいで酒を飲んだりするのが好きだった自分にとって、この誘いはなんとも魅力的だった。

自分は二つ返事で了承する旨を返答し、話はとんとんと進み、行き先は関東、それも茨城、栃木、群馬の三県に決まった。三泊四日で三県を回るのは些か無謀ともいえるかもしれないが、そのときの我々は浮かれていてそんなことを懸念することもなかった。


まず高速バスを抑えた。旅行初日の前夜出発の便を。近所のコンビニでチケットを発券して。
大体それは旅行の二週間ほど前だっただろうか。

このあたりから、旅行に行くのが面倒になっていた。
というのも、自分は極度の出不精なのである。

多額の金を払って疲れに行くよりは、家でじっと寝ていた方が燃費も良いし、なにより楽だと、そう考えてしまう。
しかし旅行の件を友人に快諾したことや、チケットを発券してしまったという事実が、有耶無耶にしてしまいたいという気持ちに歯止めをかける。


結果として、旅行に行ったあとの感想を述べるならば、今回の旅行は素晴らしかった。楽しかったし、行ってよかったと心から思う。
だけどその一方で、旅行に出る前は、面倒臭さに押しつぶされそうになっていたことを、ここに示しておかねばならないと思った。

同行した友人は、料理や酒や旅行や漫画が好きで、その多趣味さには尊敬の念すら覚える。
没頭できるものが多いということは、自分の中では、安易に幸福と結びつく。
彼は、こんな性根の捻くれた俺に旅行のプランを持ちかけてくれたり、旅行の計画を主体的に練ってくれたりと、感謝してもしきれない。
それ故か、自分の、旅に対するモティベーションの低さを鑑みて、しばしば恥ずかしい気持ちにもなった。申し訳ないとも思った。

彼と話す度、もう少し自分という奴が社会的にまともであればと、そう願ってしまう。
次に彼と旅行する機会が、もしもあったならば、そのときは、前回よりも今回よりも、旅の楽しさを彼と分かち合える人間になりたいと思う。


話は完全に逸れてしまったが、かくして夜行バスの予約をも取り付けた。そして、取り留めもないことをしている内に、その日程は訪れることとなる。

睦月

 いまの季節は十七時を越えるともう陽が暮れ始める。地平線の向こうにとっぷりと暮れ切ってしまうと、代わりに訪れるのは夜の暗い色だ。

 一月も終盤に入ると寒気も縮みあがってしまうほど酷い。自室に備え付けた石油ストーブを点けて、暖気を放つまで手を揉んで待つ。出力は最大に設定している。いわゆるファンヒーター型のように即時的には点かないので、じんわりと熱を持つようになるまでに数分はかかる。その間は珈琲を啜ったりSNSを確認したりする。

 ストーブが十二分に暖まってきたら出力を絞る。

 自室の電灯は切れてしまっていて点かない。そうなってからもう随分長い時間が経つ。別になくとも生活を送れてしまうので、特に変えなくてもよいのでは、と思うようになった。

 なので、夜間自室にいるときはデスクトップかストーブの灯りがなければ殆どなにも見えない。あまり夜間に本は読まない。

 ストーブの燃焼するにおいが好きで、嗅ぎすぎるのはよくないというのはわかるし、まめに換気をしなければ中毒症状を起こすというのもわかってはいるのだが、止められない。灯油を燃やす、ちりちりという音も好きだ。なんというか、趣がある。また、時折まるで灯油を呑み込んでいるかのような、こくりこくりという音を立てることもある。こうなると自分には、ストーブがただのストーブではないとさえ思えてしまう。

 ストーブの中芯が赤熱しているのを眺めていると、しばし時間の経過を忘れることがある。古来からひとは火を見つめていると落ち着くという話を耳にしたことがある。その類だろうと思う。

 夜は長い。

 酒と衣服と寝床とパソコンぐらいしかない簡素な部屋で、今日も俺はストーブを眺める。

コーラとサイダー

放課後の校舎の雰囲気は嫌いじゃない。
堅苦しくないというか、例えるなら紙風船のようで、空気が入っているのに弾力はないというか、そんな感じ。
その中を自由に過ごせるなら、なにも言うことなんかないのに。
廊下を歩きながら、小さな溜め息を吐く。抱えている資料の束には、文化祭実行委員会と書かれている。


ほんの少しの同情と、暇潰しにでもなればという軽い気持ちで手を挙げてしまったのが良くなかった。
担任はほっと息をつき、クラスメートは大仰に騒いだ。
ゆうに十五分は膠着状態のままだったのだ。誰もが実行委員という損な役回りを「自分以外の親切な誰か」に任せたくて、でもそれをわざわざ自分が推薦という形で他人に押し付けるのも憚られていたようで、そのまだるっこしい雰囲気が、私は馬鹿らしくて仕方なかった。
だから半ば投げやりな気持で立候補してやったのだ。
どうせ放課後の時間を埋められてしまうだけ。部活も入ってなければ、アルバイトもこの間辞めたばかりなので時間に余裕はある。

と、大見得を切ったまではよかったんだけど、想像を遥かに絶する労働量の多さに辟易するのに三日とかからなかった。
うちの高校の校風は緩く、それに対してオブラートに包んでいるつもりなのか、生徒の自主性を重んじるとかなんとか謳っている。だからこうしたイベントごとも、教師よりも生徒が主体的に運営させられている。
「主体的に」「させられている」という茶番なんてやめてしまえばいいのにと、私はそう思うけど、教師達はそういった雑事に噛まない分負担が軽いようだし、勿論生徒は「自主性を重んじる」校風のままでいたいに決まってる。
私だって「自主的に」手を挙げたのだ。引き受けたからにはやり通さないといけない。
この委員会に入ってから、私はこの学校というものについて考えることが増えた。

私は会計を任されているはずなのに、会計の仕事が終わるとそこで終わりじゃなくて、別の労働に駆り立てられる。
グラウンドの奥にある倉庫から資材を引っ張り出しては運び、街におりてペンキや厚紙を持てるだけ買い出したり、正直会計の仕事よりも働いている。
道理で誰も手を挙げたがらなかったわけだ。こんなにしんどいのなら私も立候補なんてしなかった。
サボれば怒られるし、することは地味だし、何よりくたくたに疲れるし。同じ実行委員の子も、みんな辛そうな顔をして頑張っていた。
今日だって明日の実行委員会議に使う資料をたくさんコピーしてホチキスでまとめなければならない。
資料にしたって何年も前から同じものを使い回してるし、どうせ配ったところで真面目に眺めるひとは少ないと思うけど。
いっそ文化祭なんてしなけりゃいいのに。

空き教室に入って、淡々と資料をまとめる作業をこなす。一枚一枚順番や向きが正しいかを確認して、それを机の上で揃えてホチキスで角を留める。
とんとん、ぱちん。とんとん、ぱちん。
続けている内に少し楽しくなってきた。
「冴村さん?」
廊下の方から私を呼ぶ声がする。振り返ってみると、うちのクラスの委員長がいた。
「大井ちゃんじゃん。どしたの」
「私はいまから帰るとこだけど、廊下から冴村さんが見えたから」
「あたしは実行委員の雑用だけど」
委員長は、いかにもな感じの優等生。黒くてさらさらの髪の毛や化粧っ気のない見た目から、ちょっと没個性っぽい感じは否めないけど、中身は堅物ってわけでもないし、冗談も通じるいい子だと思う。あと、睫毛がすごく長い。
委員長は教室に入ってきて、あたしの隣の席に腰掛けた。
「大変そうだね。手伝おっか?」
「ありがたいけど遠慮しとく。早く終わっても別の仕事投げられるのが目に見えてるし」
悪びれることなくそう言うと、委員長は笑った。
「ごめんね、冴村さんに任せちゃって。クラス委員がなかったら私がしてたんだけど」
「いいよ、大井ちゃんだってこの時期忙しいんでしょ」
「ずっと聞きたかったんだけど、どうして冴村さんは実行委員を引き受けたの?」
いつもつるんでる友達相手なら「内申を上げるため」とか答えたと思う。
「誰もやりたがらないから」
「そんな理由で?」
「いい加減面倒だったもの。生徒の自主性を尊重するなんていいように言っておきながら、その実は面倒ごとに対して自分じゃない誰かが人柱になることを期待するような、いまの感じが。だからいっそ進んでやってやろう、みたいな」
委員長は目をぱちくりさせたかと思うと、すぐに破顔した。
「それ、わかる気がする」
改めて、このひとってこんな風に笑うんだなって思った。そして共感してもらったことに対して、割と嬉しく感じている自分を自覚した。
「大井ちゃんこの感じわかってくれるの?」
「うん。私だって、多分そんな感じで委員長やってるし」
普段クラスで見るのとはまた違った感じの委員長は、相変わらず可愛いまんまだけど、言葉の端々に時折覗かせる翳りのようなニュアンスが新鮮に感じられた。
それが、委員長が私に気を許してくれたんじゃないかって思えて、私達は下校時間いっぱいまで話し込んだ。
文化祭なんてしなけりゃいいのにと思ったけど、話の合う友達を見つけることができたので、案外悪くもないのかもしれないな、と思った。
だけどそれから彼女と、特別なにかを話すことはなかった。教室で会っても普通に挨拶を交わすだけで、あの放課後に会った彼女はそこにはいなかった。
きっと委員長は誰に対しても優しい性格なのだろう。あの放課後も、偶然彼女の気が向いただけなのだ。一人で盛り上がっていたことを恥ずかしく思った。


あれだけ雑務に追われる日々も、終わってしまえばあっという間で、私は空き教室の窓から模擬店が行われている様子を見下ろしながら、気の抜けた人形のようにぼーっとしていた。
「冴村さん」
後ろから声がかかる。委員長だった。両手に一つずつ、サイダーとコーラの缶ジュースを持ってる。
「どっちがいい?」
「……コーラ」
「はい」
私は委員長と自然に話をしながら、その実、内心は穏やかじゃなかった。
私を見つけてくれて嬉しかったというのはもちろんある。だけどそれよりも、これからなにをどう話せばいいかがわからなかった。
第一、ろくろく話していなかったのに、どうしてまたなんでもないように話せるのか、私は彼女に小さな怒りさえ覚えていた。
委員長からコーラを手渡され、プルタブを引く。喉が渇いていたのだろうか、委員長もサイダーを開けて、早速飲んでいた。
苛立ちと緊張とが相まって、つい私は意地悪を言ってしまう。
「あ、やっぱりサイダーの方が良かったかも」
委員長は缶を傾けたまま、視線だけを寄越した。
彼女はどう返すだろう。勝手なことを言う私に腹を立てるだろうか。それとも、罪もなく謝るだろうか。

「飲みかけでよかったら」
委員長は持っていたサイダーの缶を差し出してきた。
驚きのあまり声が出ない私に、言葉が重ねられる。
「サイダーの方が良かったんだもんね」
渡された缶には、もう中身が殆ど無かった。
「じゃあ代わりにコーラ貰おうかな」
いけしゃあしゃあとそんなことまで言う始末だった。

もう限界だった。
私達はお腹を抱えて笑い合った。床にジュースも零した。制服にもちょっと引っかかった。そんなことがどうでもよくなるぐらい面白かった。
委員長はなにも変わっていなかったのだから、これほど嬉しいことはない。
お腹が引き攣るぐらい笑ったのは、何年ぶりだろうか。笑いが治まるのに何分か必要で、お互い、息も絶え絶えになった。
「あー、喉乾いた」
「大井ちゃんサイダー結構飲んだじゃん」
「冴村さん探すのにあっちこっち走ったから」
今更になって私達は、連絡先の一つも交換していないことに気付いた。
「私を?」
「寂しがってるかなーって」
「別にそんなことないけど」
「ふうん」
「なにその言い方」
「なんでもない。それより模擬店行かない?」
「うん」
もう少しで陽が傾いてくる頃だ。

それから模擬店で色々買って、また同じ教室に戻る。二人だけでのんびりと過ごした。
「あ、屋上見て、冴村さん」
委員長が指さした先には、うちの制服を着た男子と女子らしき影があった。
「んー……んん?」
二階の空き教室からなんとかわかるぐらいなので、恐らく地上からは彼らを捉えることは難しいだろう。逢瀬の場所を探すのも大変だな、と思った。
「不純異性交友だね」
「きょうびそんな言い方しないでしょ。ていうかあれ佐月かな」
「……知り合い?」
「仲はいいね」
体育の合同クラスでよく話すひとだった。
「……よく話すの?」
「大井ちゃんよりは」
何気なく言ったつもりだったが、予想以上に彼女には効いたようで、
「なに、それ」
委員長の声色が変わった。
「他意はないけど」
「私より話すからなんなの」
「なにも言ってないじゃん、そっちこそなに」
「仲がいいから、なんなの」
委員長が私の手首を掴む。彼女の身体はわなわなと震えていて、その振動が繋がった手首を越して届く。震えている割に掴む力は弱々しかった。
「なんでそんな怒ってんの」
「怒ってないし」
「うそ。じゃあこれはなに」
私は手首に目を遣る。委員長の手がびくりと揺れる。彼女の目が、気まずそうに伏せられる。枯れ枝が自重によって朽ちてしまうようにして、掴んだ手も緩やかに離される。
「私にとって」
委員長が囁く。
もう殆ど沈んでしまった陽が、彼女の斜め後ろに見える。本格的に夜が始まろうとしていて、その暗い彩りは目の前の彼女の心象のように見える。
「私にとってあなたは、憧れだった」
囁き声は、まるで行き場をなくしたかのように私の周りを飛び続ける。
「友達の多いあなたはいつも幸せそうに映った。いつだって誰かが傍にいて、私はそれが羨ましかった」
「私も友達を増やそうと頑張ったし、実際増えた。いつも誰かが傍にいてくれるようになったけど、でも幸せじゃなかった」
彼女が一歩、前に出る。
「私はようやく気付くことができたの。私は他ならないあなたが欲しかったんだということに」
彼女の手が私の顎に触れる。
「でもあなたの周りにはいつも誰かがいて、私が入る隙間はなかった」
彼女は数秒の間、目を閉じた。
「あの日の放課後は、一番幸せだった。信じもしない神さまに感謝したくらいよ」
彼女の顔が近付く。じりじりと距離を詰める蛇のように、ゆっくりと。どこも掴まれていないのに、私は動くことができない。
「あの日のあなたはいつも教室で見かける姿とどこか違っていて、てっきりあなたが私に気を許してくれたのかと思った」
もう明かりをつけないと視界が不鮮明に感じるくらいには陽が沈んでしまっている。暗さに順応した私の目は、ただ彼女の長い睫毛を捉え続けている。
胸の内側を鷲掴みにされるような、嬉しいような、切ないようなそんな感じの甘い痛みがする。

鼻先が触れ合うほどの距離。
私と彼女は息が詰まりそうなほど暗く静かな教室の中で、お互いの目の奥を覗き込んでいる。
「聞いてほしいの」
「……なに」
「私はあなたがすき」
窓の外の広場ではまだ微かにひとの声がする。彼女の目の縁に溜まり始めた涙を、私は綺麗な宝石のようだと思った。
「すきなんだけど、でも、女の子同士なんて変だよね。わかってる、わかってるの、でもすきなの」
涙が溢れないように、彼女の眉間や頬に皺が入る。
「だから、思ってることを伝えるだけ伝えて、もうあなたとは話さないことに決めた。勝手なこと言ってごめん、さよなら」
彼女が一歩、後ずさる。

私は頭の中で色々なことを考えていた。でもその色々をいざ彼女に伝えようとしたところで、なにから話すべきなのかが、いまひとつわからなかった。
「ねえ」
だから私は、暗闇に溶けてしまいそうな彼女の手を取って、まず一番聞きたいことを聞いた。
「大井ちゃんは、恋人となにをしたいって思う?」
「え?」
すべらかな手を掴みながら、私は言葉を待った。
「……キスとか、デートとか」
私は彼女の手を引き寄せる。
私だって慣れている訳ではないので、ぎこちない感じになってしまう。
ただ触れ合わせるだけのキスなのに、耳の先まで血が登ってしまうほどどきどきした。
「さえ、むらさん?」
「女の子をすきになるのは変かもしれないけど、変だからって私は諦めたくないな」
暗いから顔が赤いのなんてわからないはず。私はもう一度キスをした。
「大井ちゃんが思うほど特別な私じゃないし、私だって大井ちゃんのこと勘違いしてたかも。私だってあの放課後は、幸せだったから」
「……あなたをすきで、いいの?」
「私は大井ちゃんじゃなきゃ、嫌だけどなあ」
「わ、私も冴村さんじゃないと嫌だよ」
「それならいいじゃん。私達は今日をもって恋人だ」
引っ込んでいた彼女の涙が、わっと溢れてきた。
彼女の手を引いて、廊下へ出る。彼女は子供のように泣きながらついてきた。私は小さなその頭を撫でてあやしながら、考えごとをする。
初めてのデートはどこにしようか?

内省的日記

 

 未来の自分に手紙をしたためたことがあるひとが、この文章に目を通すひとの中にどれほどいるだろうか。

 その大方は若気の至りに依るものかもしれない。自分だって、何年も前にはなるが、二十歳の自分に宛てて書いたことがある。二十歳をとうに過ぎたいまでも、時折読み返すことがある。例えば机の引き出しを整理するときなんかに、偶然目に留まったりして。

 手紙の中には書いた当時の自分がそのまま生きていた。あの頃打ち込んでいた部活動のこと、仲のいい先輩のこと、幾つかの悩みごと、好きだった女の子のこと。どこかで書いた覚えはあるのだが、こういった過去の手紙や日記は、書くその瞬間ではなく、こうして何年も経過した未来にこそ、読まれるべきものだと思う。

 昔の自分はどうしようもない阿呆だった。しかし毎日が充実していた。別にいまが楽しくないといえば嘘になるが、記憶の補正も手伝ってか、もう二度と戻ることができないというファクターの強さにやられてか、とにかく思い出すだけで幸せな気分になれる。

 過去の自分がこの記事を読む機会は、天地がひっくりかえってもないだろうけど、もしも目にしたとすれば、驚くだろうな、とは思う。何故ならいまの自分は過去のそれと似ても似つかないだろうから。本当に本人なのだろうかと疑うだろう。ときどき過去の自分と対話したらどうなるだろうと、とりとめもなく考えることがある。そういうことばかり考えてしまう。これもいつだったか、なにかに書き付けた覚えがあるのだが、どうやら俺は、絶対に起こり得ないことや、もうどうにもならないことに対して、思いを馳せたり、とにかく時間を割いてしまうきらいがあるようだ。

 備忘録のつもりでなにかに書くにしても、それをどこに書いたかを覚えていられないというのは、本末転倒ということではないだろうか。

 未来の自分にではなく、今度は過去の自分に宛てて手紙を書きたい。未来の自分は辛い辛いといいながらもきちんと生きているとか、大学生でもう一度女の人と付き合うことになるけど彼女は東欧に語学留学に行くし、まあ色々あって別れることになるとか、書く内容には困らないだろう。そう思うとこの数年は、自分が思う以上に起伏のあるものだったのかもしれない。それはきっと今後も続いて行くのだろう。もうどうにもならないことだからか、考えは湧き水の如くに止まらない。

 肉体ばかりが時間の流れに従順で、精神がそれに追いつくことができないままでいる。いまの自分の中の何割が当時の自分のままでいるのだろうか。気を抜くとまた、どうにもならないことを考え込んでしまいそうになる。蓋しそれが人生なのかもしれない。

 自分の中で当時の自分はまだ死んでいない感覚があって、じっと息を潜めているイメージがばかりある。当時の自分を知っているひとに会うときにだけ、俺の肉体に憑依して現れる。あの頃からなにを得て、またなにを失ったのか。考えることすら恐ろしいことだけど、きっと潜在的に答えは理解している気さえする。

 高度な精神がほしい。高度な、といってしまうと鼻につくような俗っぽさは否めないが、というよりこうしていま叫んでいるこの行為こそが、俺が嘆かわしく感じてしまう精神性の幼さを如実に物語っている証左なのだろうけど、ここにまで思考が辿り着かなければ理解に至れないというのだから、始末が悪い。

 自分の殻に閉じ籠もっている時間が増えた。内省はそれ自体、悪いことではないと信じているが、ものごとにはなににだって限度というものがあり、たまに自分はそれを逸脱しているのではないかと思うことがある。

 この記事にしたって、いつかの自分に向けた手紙のようなものだろう。恐らくそれは消さない限り未来の自分が読むことになるのだろうけど、そのいつかが楽しみで、それは例えば明日のようなすぐそこの未来なのかもしれないけど、だとしてなんの不満もない。

 手紙は相手に届くことに、その中に記した意味が伝わることに意味がある。例えそれがコンピュータ上の、液晶上のグラフィック、スプライン補間によって白色と黒色を塗り分けただけの記号の集合体に過ぎなかったとしても。そこに意味を込めたひとと、その意味を受け取ったひとさえいれば、それ以上になにを求めようか。

 明日も俺はなんでもないように生きるのだろう。過去がそうだったように。明日以降もそうして、過去を延長して生きていくのだろう。最後まで目を通していただいて有難う。つまらない文章で申し訳ない気持ちも大きいが。

大きな寝床

ぜんぶ美紗都が悪い。
周りの目を引いてしまうほど可愛いのも、大勢の中から聞き分けられるほど澄んだ声も、ほっそりとしたその身体も、ぜんぶ。
そんな彼女を前にすると私なんて霞んで見えてしまうかもしれない。だけど私は彼女の恋人なのだ。

私は美紗都とルームシェアをしていて、同じ大学の同じ学科にいる。丘の上に立つ、狭くて古い学舎だけど、それはそれで雰囲気があって良い。
私と彼女は、パスタをフォークに巻き付けるみたいに、それはもう自然な流れで恋人の関係になった。
私は彼女に選んでもらえて嬉しかった。細くてすべすべな指で触ってもらえるのが嬉しかった。
一緒のベッドで寝るのも、例え青かったとしても、愛と呼べる言葉を囁きあうのも、ぜんぶぜんぶ、大好きだった。

でも、美紗都は最近私に隠し事をしている。
なにかと用事があるといって、二人の時間を避けてどこかへ行ってしまう。
最初は美紗都のいうことに疑問は抱かなかった。恋人といってもずっと一緒にいるわけじゃないし、言いたくないことだってあるだろう。だから寂しくても仕方ないと思うようにしていた。
美紗都が、同じ学科の女の子と二人で街を歩いているのを偶然見掛けるまでは。
彼女達はそのまま私に気が付かないまま、アパートの一室に消えていった。恐らく相手の女の子の家なのだろう。その晩、美紗都は遅くに帰ってきた。
普段通りの表情をして、私に笑いかけた。
それから段々と美紗都の「用事」の頻度が増えた。

いつもどこでなにをしているの。私は美紗都にそう問い詰めるだけでよかった。一緒にいた子は誰なの。それなのに、できなかった。
もしも美紗都が、私の恐れている通りの答えを口にしたら、私はどうすればいいの。私は彼女がいないと生きていけるかわからなかった。
詰問すれば、美紗都から別れを突きつけてくるかもしれない。そう思うと、恐れが加速して訊けなかった。美紗都のいない部屋でめそめそと泣いた。

二人で選んだダブルサイズのベッド。部屋が圧迫されたとしても寝る場所には拘りたいと、家具屋を何軒も回った。
二人が寝そべっても少し余るくらいだから、当然ながら一人だと大きすぎる。そればかりか、いつも美紗都が寝るはずの隣がぽっかりと空いていて、心ばかり締め付けられる。
今日は私の誕生日。美紗都はお祝いのメッセージを寄越してくれたけど、それだけだった。
そのメッセージのすぐあとに、今日も用事で遅くなるかも、と付け足しがあった。
私はスマートフォンを放り出してベッドに潜り込んだ。最初はさめざめと、それからすぐに枕に顔を埋めて声も殺さないで泣いた。こんなに泣いてしまうと跡が残ってしまう。そうなると美紗都に泣いていたことがばれてしまう。でも涙は止まってくれなかった。
もうなにもかもが限界だった。私が大人しく身を引こうと思った。彼女が帰ってきたら言おうと、泣きすぎてぼんやりした頭で考えた。

いつの間にか寝ていた私は、美紗都が帰ってきた音で目を覚ます。ベッドの上で丸まって、タオルケットを頭から被ったままじっと息を潜めた。
やがてぱたぱたと足音を立てて美紗都がやってきた。
「ごめんね、帰ってくるの遅れて」
本気で私を気遣う声音だった。なのに、白々しく聞こえてしまって、私は一体誰を嫌悪すればいいのだろうと迷ってしまう。
「唯?」
ベッドの傍に駆け寄って、美紗都が私の肩を揺する。
「寝てるの?」
そしてタオルケットをめくった彼女が息を呑む。
「どうしたの、唯、なんで泣いてるの」
美紗都の声を聞いていると、枯れるくらい泣いたのに、また涙が滲んできた。
「嫌なことでもあった?」
「……美紗都」
「どうしたの?」
「あなた、誰と、なにしてるの」
ぜんぶ美紗都が悪い。
周りの目を引くほど可愛いのも、大勢の中から聞き当てられるほど澄んだ声も、ほっそりとしたその身体も、ぜんぶ。
そんな彼女を前にすると私なんて霞んで見えてしまうかもしれない。だけど私は彼女の恋人なのだ。
でも、私は彼女の恋人なのに、私から別れは、とうとう言い出せなかった。
「用事のこと?」
美紗都は膝をついて、寝そべる私と同じ目線になって、聞き返した。
私は子供のように頷いた。
「……誰かから聞いたの?」
「この前駅前で学科のひとと歩いてるとこ、見た。そのあとそのひとと家に入るとこも」
もう涙はぼろぼろとは出なかったけど心臓は痛いくらい暴れていた。

「……そっか。でももう隠すこともないからね」
美紗都は真面目な顔をして呟いた。私は、血の気が引いていく感覚だった。
そして美紗都の背後にあった紙袋から、彼女はなにかを取り出した。
「誕生日、おめでとう」
手渡されたのはマフラーだった。思わず上体を起こして受け取る。白と灰色だけの、シンプルだけどとても綺麗なマフラーだった。
「編んだの。貰ってくれる?」
美紗都は頬を染めて、尋ねてきた。
「これ、美紗都が編んだの?」
「唯の為だけに、友達に付きっきりで教えてもらって編んだんだから」
わざとらしく眉に皺を寄せたかと思うと、悪戯っぽく微笑む。
「友達って、まさか」
「そのまさか。唯が勘違いした子だよ」
恥ずかしくて、耳まで赤くなってしまった。
「か、勘違いって、私の苦労も知らないで、」
そのとき、私の声を遮って美紗都が私を抱きしめた。
久し振りに嗅ぐ彼女の香りに、安心を覚える。
「心配かけて、本当にごめんなさい」
「え、あ、」
「完成するまでは、こういうことしないって決めてて。ああ、唯のにおい久し振り、すき」
「美紗都、力、強いってば」
美紗都が抱きついたまま、ベッドの上に倒れ込む。
「私が」
美紗都の整った顔が、心なしか潤んだ瞳が、私の眼前に現れる。
「私が好きなのは唯、あなただけなんだから」
いつもよりも少し長い口付けのあとに、
「唯はどう?」
ただ一言、小さく彼女は付け足した。
「私は──」
音が鳴らないように意識して、唾を飲み込む。私と美紗都の二人だけにお祈りするように。
「私も。美紗都じゃないといやだよ」
ダブルサイズのベッドは、二人でも少し余るくらいで、だけどそれが丁度いい。

彼女と彼とクリスマス2

「今日は何の日でしょう」
「クリスマスだろ」
「そうだったの?」
「お前はどんな答えを想定していたんだよ」
「サンタさんが世界中を駆けずり回る日だとばかり」
「言い方って大事だと思うんだよ」

「動物園行こう」
「急にどうして」
「去年は水族館だったもの」
「でも外寒いじゃん」
「服を着れば命に別条はなくなるよ」
「そのレベルの話はしてない」
「最近生まれたパンダの双子の赤ちゃんが見たいよ」
「そうだったのか」
ミャンミャンとピョインピョイン見たいよ」
「名付け親は馬鹿なのか」
「まさか一般公募で決まるなんてね」
「よりにもよってな名前を引いてしまったな」
「名付け親として挨拶しなきゃ」
「お前かよ」

「あ、見て見て、あれかわいい」
「なにかいるのか」
「園内に設置された自動販売機」
「せめて生きものにしよう」
「あの動物はどこ?」
「どの動物」
「さめ」
「いません」
「さめだって動く物なのに?」
「カテゴライズが雑なんだよな」

「あ、あそこで兎に餌やりできる」
「してみるか」
「臭いからいや」
「取り付く島もない」
「そんなことより猛禽類が見たいな」
「構わないが」
猛禽類って兎とかも食べちゃうんだよね」
「兎に恨みでも持ってんのか」

はやぶさ、凄くかっこよかったね」
「そうだな」
「お腹空いてきちゃった」
「なにか食べにいくか」
「えっとね、焼き鳥」
「タイミングの悪さ」

「あたしのオムライスわけてあげる」
「別にいい」
「はい、あーん」
「無視か」
「おいしい?」
「うん」
「なんか餌やりしてる気分だね」
「それが言いたかっただけだろ」

prototype,cuisine

「水炊きは油揚が、ばり美味しいんよ」
「油揚が、ですか」
「疑いようやろ。ほれ、食べりんしゃい」
彼女が器に煮立った具材をよそってくれる。よそった上からポン酢を一回し分だけかけて、手渡してくれた。
まあ油揚はたしかに旨いけど、と思いながら器を受け取ると、彼女はにこにこしながらこちらを見つめている。
言われたとおりに出汁を吸い込んだ油揚を食べてみると、噛めば噛むほど染みた鶏の味が溢れ出てきて、これは旨い。
「うち実家では肉団子と一緒に豚バラも入れとるけ、野菜と一緒にいったらもう最高やけな?」
それなら、と次は白菜と豚バラをまとめて口に含む。
目を見開いた。
はっきりとした食感の白菜の中から柔らかな肉が顔を覗かせて、全く飽きがこない。豚肉の白い脂身が白菜に引き立たされていて、そこに出汁が上手く絡む。一口食べてから、箸が止まらなくなってしまった。
「な、な、最高じゃろ?」
俺の反応を見て、自分のことのように嬉しそうに笑いながら、彼女が話しかける。
俺は口いっぱいに鍋の具材を詰め込んでいるので話すことができず、何度か頷くので精一杯だった。
彼女も幸せそうな顔をして鍋を食べ始める。
「水炊きは使う具材によってまた味が変わるき、色んな食べもので試すんがよか」
榎茸をひと束、掴む。そのまま口に運ぶ。しゃきしゃきとした歯ごたえがたまらない。
次は肉団子を掴む。齧ってみる。肉の挽き加減がこれまた絶妙で、食べごたえがあって、こいつもたしかに旨いには違いないのだが、如何せん熱い。
口の中で肉団子をたらい回しにする。
「そこでビールを飲むんよ」
すぐに缶を仰いだ。少し温くなった、しかし十分まだ冷たいビールが喉を通り越す。熱さが瞬時に快感に変わる。思わず唸り声が出てしまった。
「わぐ君見よるといつもよりお酒が美味しかよ。次は水餃子いこか」
彼女が微笑みながら鍋をつつく。しばらく無中になって鍋を食べた。

彼女と彼と占い

「占ってあげよっか」
「急にどうしたの」
「なに占いがいい?」
「無視かな?」
「星座占いにするね」
「なんでもいいけど」
「それじゃあね……射手座生まれのきみは今日一日幸せに過ごせます」
「そりゃ良かった。射手座生まれの誰かに言ってやってくれ」

「手相みてあげる」
「男の場合は左手を見るんだっけ」
「たしかそうだった気がする」
「よーし、あたしに任せて」
「手相なんか見てなにがわかるんだよ」
「むむ……この手はきみの左手ですね」
「占ってくれよ」

「血液型占い」
「また古典的な」
「きみは何型?」
「O型だけど」
「えっあたしも一緒だよ」
「へえ、そうなのか」
「うっそぴょん」
「せめて占いという体は保ってくれ」

「タロット占い」
「これならまともそうだな」
「一枚選んで」
「じゃあ、これ」
「ぷぷぷ、はずれです」
「外れたらどうなるんだよ」
「一回休み」
「ついていけねえ」

「昨日どんな夢みた?」
「特になにも」
「ははあ、なるほど」
「それって夢占いだろ?」
「そうだけど?」
「俺が夢見てなかったらできなくね?」
「ところがどっこい」
「夢占いの根底を覆すのやめろよ」
「今日のきみの運勢はちょべりばです」
「時代設定がずれてる」
「ラッキーアイテムはあたし」
「安いドラマみたいなネタやめろ」
「あたしにクレープを奢ってくれたらちょべりぐ」
「その表現好きなの?」
「あたしデラックスチョコバナナミックス」
「早速クレープの予約入れるのやめろ」
「きみってO型なのに細かいこと気にするよね」
「血液型関係ねえだろ」

二分三十秒のご馳走

「三枚交換します」
「うええ……じゃあ一枚交換で」
「コールします。君は?」
「……コールで」
「ストレートフラッシュです」
「先輩強すぎませんか」
「君の手配は?」
「……フラッシュです」
「私の勝ちですね」
ぐぬぬ

「こんな時間ですか」
壁に掛けられた時計を見遣れば午前の二時を過ぎていた。日付が変わるか変わらないかぐらいからずっとしていたので、少なくとも二時間はポーカーに興じていた計算になる。
「ほんとだ。俺達没頭しすぎでしょう」
「ですがこれで私がポーカーに強いというのは信じていただけたと思います」
「ええもうそれは」
先輩の勝率は、ざっと思い返すだけでも九割を超えていた。
「ふふ。掛けのこともお忘れなく」
「わかってますよ」
俺と先輩はどちらがより強いかを掛けて勝負をしていたのだ。
カードを片付けた先輩が、小さな声で提案した。
「あー、あの。小腹が空きませんか」
「そうですね、なにか食べたいです」
俺はというと、かなり空腹だった。
「ですが生憎、いまなにも食べるものがなくてですね」
「なるほど」
遠慮がちに先輩が切り出してきた。
「コンビニ。いまから行っちゃいませんか?」
悪戯っ子のような笑みを含めて。
「お供します」
俺はというと、即答だった。

「深夜に出歩くのは初めてです」
「そうなんですか?」
「はい。不良の気分です」
「そんな箱入り娘みたいなひと、初めて見ました」
「普通の娘ですよ」
「普通の娘はそんなにポーカー強くありませんて」
「ところで君はなにを買うんですか?」
「カップ麺でも頂こうかなと」
「カップ麺」
先輩の目が一瞬異様に輝いたように見えた。獲物を捕捉した獣のように。
「私もカップ焼そばにしようと思っていました」
「箱入り娘なのにカップ麺食べるんですか。それもこんな遅くに」
「私はポーカーが強い普通の娘です。加えてカップ焼そばには一家言あります」
先輩とインスタントという取り合わせは、違和感しかなくて意外だった。
「カップ麺、詳しいんですか」
俺が目を丸くして尋ねると、先輩は毅然とした声で、
「カップ麺ではなく、カップ焼そばです」
それから小さな声で付け足して、
「……詳しいといっても、少しだけです」
とても恥ずかしいといった様子だった。

「大学受験のときに、夜食として生まれて初めてカップ焼そばを食べたんです」
「へえ」
「衝撃でした。どうしていままで食べていなかったのかを悔やむほどには」
「はまったんですか」
「それはもう、見事なまでに」
店内を歩きながら、先輩は微笑む。はじめて味わった感動を思い返すように。その姿はとても綺麗だった。
カップ焼そばのコーナーに辿りついた。そこには期間限定味であったり、既存のものの増量版であったりと、様々な種類があった。先輩は真剣な表情でもって商品を見つめている。
「君はなににしますか」
「夜店の一平にします」
先輩が小さく親指を立てる。
「いいセンスです」
「先輩は?」
「私はですね」
先輩の声が、いつもよりも堅い気がするのは気のせいだろうか。
先輩が手に取ったのは、直方体型のフォルムが特徴的な、例のものだった。
ペヤングです」
しかも最近復刻したばかりの超大盛り。
「カロリー計算とか大丈夫ですか」
失礼かなと思う気持ちに勝って、尋ねてしまった。
「大丈夫だから食べるんですよ」
それから、先輩の勧めでお互いに塩むすびを一つずつ購入し、帰路につく。

薬缶に水を張り、火にかける。二人分だから水の量も多く、なかなか沸騰しない。
「待ち時間にポーカーでも?」
「そりゃ勘弁してください」
「む、そうですか。でも暇ですね」
「カップ焼そばについて、なにか小咄とかありませんか」
少しは盛り上がるかと思って言ってみたら、待ってましたと言いたげな様子で、先輩は得意そうに眉を釣り上げた。
「聞きたいですか。カップ焼そば論」
「もちろん」
先輩は、んんっと咳払いを一つして、
「いいでしょう。まずカップ焼そばといってもたくさん種類がありますよね」
「たしかに」
「ソースが粉末か液体か。麺が太いか細いか。野菜の量が多いか少ないか。販売会社は顧客のニーズと自社のこだわりに折り合いをつけながら、納得の一品を生み出し、市場に並べます。カップ焼そば業界は熾烈な争いを日々繰り返しているのです」
「そんな大袈裟な」
「本当のことですよ。その証拠にどの焼そばも美味しいじゃないですか。ユーザーの意向を汲み取り、それをいかに商品に反映させるかの繰り返しです」
「まあ、そうですね」
「我々は星の数通りほどもある組み合わせの中からお好みの形態を選んでいるわけです」
先輩は胸を張ってそう宣言した。
「カップ焼そばの話ですよね」
「そうですよ。ふりかけが青のりなのか文字通りのふりかけなのか。マヨネーズがあるか否か。あったとして、辛子仕立てなのか否か。オプション一つとってもこんな感じなんです」
「な、なるほど」
「最も美味しい焼そばなんて、個々人の中にしか生まれないんです。残念なことに、恐らく我々はその生涯の中で、全国に販売されているすべてのカップ焼そばを味わうことができないでしょう。加えて地方や期間限定発売という商品もあることを鑑みるに、全国的に最も売れているものが、売れているが故に最も美味しいという裁定も下せない筈です」
「はい」
「長々と話しましたが、つまり各々好きなものを食べるのが一番良いという話なのです」
「その結果が、先輩の場合はペヤングだったと」
先輩は一瞬だけ言葉に詰まった。
「そうなります」
「じゃあ、先輩的にこれはどうですか?」
俺は自分が買ったものを指さした。
「夜店の一平ちゃんはですね。なにはなくとも麺が素晴らしいです。ほどよく縮れており、それでいて割とあっさりめの歯切れなのが絶妙な食感なんです。辛子マヨネーズも辛子の風味を前面に出すテイストで調合が良く、分量も申し分ありません。ただ、ふりかけが青のりでないことが唯一私の好みではありません。それもまた一興なんですけどね」
にへ、と笑いながら滔々と語る先輩の姿を見て、本当にこのひとは好きなんだなと思った。

そうこうしている間に、ぽこぽこと軽快な音を立てて鍋が騒いでいる。沸き上がったのだ。
先輩は台所に向かい、火を消し止めながら話す。
「はしゃぎすぎてしまいました。珍妙な話に付き合わせてしまって申し訳ないです」
「そんなことないですよ」
「このことを誰かに話せたのは、君が初めてです。あまり身の回りの同性の方はカップ焼そばを嗜まないようなので。さあ、お湯を入れますよ」
二つのプラスチックの容器に熱湯が注がれる。立ち上る湯気に、乾麺の匂いがついていて、それだけで食欲が刺激される。携帯のタイマー機能を起動する。
「カップ焼そばがカップ焼そばたるゆえんの一つは、このプラ容器だと思います」
「あー、なんかそれわかります」
「このチープさがですね、この手軽さがですね、私の中のジャンキーな欲望を満たしてくれるんです」
先輩は、目の前に置かれたペヤングを見つめながら言った。
「……ペヤングは、一度販売を止めることを余儀なくされたんです」
先輩は笑ってこそいたが、そこにどこか暗い感情が宿っているのがわかる。
「ああ、混入がどうだとかの」
「ええ。それについての真偽がどうとか、私はそういうことを言いたいわけではなくて、もう一度戻ってきてくれたことが嬉しくて仕方がないんです」
先輩は一度呼吸を挟んで、
「私が初めて食べたカップ焼そばも、ペヤングでした」
それから先輩は、時間が来るまでそれ以上なにも言わなかった。

「お湯を捨てるのは凡そ規定時間の三十秒前です。素早く捨ててきちんと水分を切り、ソースとオプションを手早く混ぜ合わせましょう」
「あいあいさ」
二人で流しに立って、肩を並べてお湯を捨てる。
「復刻版はサイズの小さなものだけで、超大盛りは出ないものだと思っていました」
「そうだったんですか」
「どうやら私はいま、初めて食べるときよりも緊張しているようです」
先輩は流しからもうもうと立ち上る湯気に遮られていて、その表情を拝むことはできない。

「さあ早く混ぜましょう。カップ焼そばは待ってくれません」
「合点です」
「ああ、この重量感……やっぱりペヤングはこれじゃないと」
「感傷に浸ってないで早く混ぜないと。カップ焼そばは待ってくれないのでは?」
「はっ。そうでした」

半ば駆け足気味にソースを混ぜる。カップからこぼれてしまわないように気を付けて。続いて銘々についてきたものを投入する。混ぜる。混ぜる。つやつやと輝く麺と、えも言われぬソースの悪魔的な匂い。いますぐにでもかき込んでしまいたい欲に駆られる。だって、深夜三時のジャンクフード。美味しくないはずがないのだ。
一緒に買った塩むすびも用意した、冷蔵庫で冷やしていた番茶も用意した。
俺と先輩は顔を見合わせて、合掌した。

春の巻きもの

「春巻きって、春を巻いてるんでしょうか?」
先輩が急にそんなことを言うものだから、俺は思わず彼女の方を見た。
「……違うと思いますが」
俺は直感でそう答える。
「では、なぜそのような名前なのでしょうか」
先輩はどうにも腑に落ちないといった表情を浮かべる。
「大方、春の食材で作るからでしょ」
「ほら、それは春を巻いているのに他ならないです」
「春を巻くということが、春のもので作るのと同義だというんですか」
「春のものを巻くんですから、そうなんでしょう」
先輩は得意げな顔をする。
「でも、この中だと春のものって、筍ぐらいですよ」
「むう。そんなことはどうでもいいんです。ただの名前の由来に過ぎませんので」
「変なとこにこだわりますね」
俺が苦笑してみせると、つられて先輩も笑った。
「ひととはそういう生きものなのです」
そうしてまた、俺と先輩の間に沈黙が滑り込む。黙々と作業を進める。
小麦粉を平たく伸ばしたものに、豚肉やニラや筍を適量乗せて、棒状に包む。単調といえば単調な作業に、俺なんかはつい雑に作ってしまうこともあるけど、先輩は一つ一つ丁寧に包む。やっぱり変なとこにこだわるひとなんだなと、そう思う。

「揚げものは怖いです」
「俺が揚げますから」
「怪我だけはしないでくださいね?」
「しませんって。慣れてますし」
「でも、跳ねた油って、熱いですよ」
そりゃそうでしょ、と思いながら、包んだものを沈めてゆく。だけど今回は特別水気もないし、そもそも跳ねることがないのだ。
「ほら、跳ねませんから大丈夫です」
「そうですね、安心です」
と言いながらも先輩は俺の背中に隠れて、恐る恐る鍋を伺っている。
「揚げものはですね、とっても美味しいのですがリスクが高すぎます」
「まあ割と手間もありますし」
「そうなんですよ。コロッケをですね、手作りしたときも大変でした」
「コロッケを」
「はい。美味しかったんですけど」
先輩の言葉をぼんやりと聞きながら、なんて平和なんだと思った。

「はい、出来上がりました」
皿にとって、それをテーブルに置く。
「揚げてくださって助かりました」
「いいえ、お安い御用です」
先輩が炊飯器を開けて、炊きたての米をしゃもじで切り混ぜる。
「お礼といってはなんですが、昼ごはんを食べていってください」
「……俺はもしや昼飯にお呼ばれしたわけではなく、揚げもの代理のためだけの存在だったんですかね」
「冗句です、冗句」
先輩の手によって、山のように白米が盛られた茶碗が、二つ出来上がる。
「先輩って白飯好きですよね」
「ええ、とっても」
満面の笑顔とともに返ってきた。が、すぐにその顔が曇る。
「……やっぱり、はしたないって思いますか?」
「いいえ、全然」
「ほんとですか?」
「勿論です」
「良かったです。ご飯も君も、大好きです」
「……あー、食べましょう」
「そうですね、もうお腹ぺこぺこです」
俺と先輩は、仲良く合掌した。