晩夏と茄子と
掬いあげた水が、器をかたどった手のひらから零れるようにして、目が覚めた。
夏の終わりにしては、空気はひんやりとしていた。隣を見遣ると、安らかな寝息を立てている恋人がいる。顔を寄せて、まじまじと見つめる。少しだけ間の抜けた寝顔にキスしてやりたい衝動をおさえつけて、身体を起こす。
辺りはどうやら真夜中だった。
二人に掛かっていたタオルケットを抜け出して、暗闇の中、部屋を歩く。キッチンに赴いて、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのボトルを引っ張り出して、キャップを回す。
週末だからか、冷蔵庫の中が寂しい。
大きな扉の内側で、ぱっと目につくのは、卵と、冷蔵しなければばらない調味料と、缶ビールだけだった。
ついでに野菜室を開けると、ピーマンと茄子と玉葱が幾つか。
冷凍庫にはカップアイスが入っていた。
空腹なのか、そうでもないのか、判別の付きづらい具合だったので、なにか丁度いいものがあれば食べてしまおうかと思っていたけど、諦めることにした。時間帯も時間帯だし。
水を喉に流し込むと、気管から胃にかけて、さあっと冷えていく感覚が気持ちいい。
冷やされているという自覚をもって、私は胃の形を感じる。昨日の晩に食べた白身魚のムニエルは、もう融けてしまっているだろうか。
半分ほど飲んで、またキャップをする。明日は買い物に行かないとな、なんて思いながら、ボトルを冷蔵庫にしまいこみ、キッチンを後にする。
相変わらず夜闇は深いままなのに、目が慣れてしまってか、色々と見えるようになった。部屋の中央にあるガラステーブルに、片付けられないまま置いてあるビールの空き缶が二つあることも。
そのまま寝床に戻る気分でもなかったから、わたしは引き出しから、ライターと煙草と、灰皿を取り出す。網戸を開けて、ベランダに出る。
風が気持ちいい。
エアコンの室外機に腰掛けて、暫く景色を眺めてから、煙草に火をつけた。
アークロイヤルのアップルミント。吸うと、煙草の味はもちろんのこと、紅茶のフレーバーが味わい深い。他のものと比べると少しだけ値は張ってしまうけど、もっぱら私が好んで喫煙するのはこれだった。
たっぷり時間をかけて、二本吸うと、身体じゅうに煙が回ったような錯覚を覚えて、気分がふわふわしてくる。そろそろ寝ようかなと思って、部屋の中に戻る。
物音を立てないように気を付けながら、ベッドに潜りこむ。タオルケットを掛けなおして、恋人の肩に頭を寄せる。植物が芽吹くように、眠気がやってくる。
「また煙草吸ったんだね」
眠っていたとばかり思っていた彼女が話すものだから、驚いた。
「起きてたの?」
「美紗都がキスしようとしたとこ辺りからかな」
「結構起きてるね」
二人して笑い合う。その波が収まると、自然なことのようにくちびるを重ねた。
「紅茶のにおいがする」
楽しそうに彼女が言う。
次の瞬間、彼女のおなかが可愛らしい音を立てた。
「ねえ、美紗都」
「うん?」
「おなか空いちゃった」
なんでこの子はこんなにも愛らしいんだろうと思いながら、私は微笑む。
「そういえば冷凍庫にアイスがあったけど、唯、食べる?」
「んん、アイスかあ……」
「ピンとこなかった?」
「そういうわけじゃないんだけど、ねえ」
ベッドに寝そべったまま、私と唯は黙りこくる。
「まあ、ちょっと寒いもんね」
私がぽつりと漏らすと、彼女は頷いた。
「おなか冷えちゃうからね」
でも、困ってしまう。
彼女に触発されて、私もおなかが空いてきてしまったのだ。
だましだまし、眠ることもできないくらいには。
「ちょい待ってて」
ベッドを抜け出て、再びキッチンの方に向かう。キッチンの蛍光灯だけ点けて、中華鍋に油をひく。
IH調理機は、加熱温度を調整できるから、便利だと思う。百七十度に設定して、油が温まるまでの間に野菜室から茄子を幾つかと玉葱を取り出す。
玉葱は皮を剥いてイチョウ切りにして、水に晒しておく。
茄子は縦に半分に切って、背中に幾筋か切れ込みを走らせる。
雪平鍋に出汁と醤油とみりんをいれて、一煮立ちさせる。
油の温度が十分に高まってきたら、そこに茄子を沈める。
二、三分ほどで茄子の色が綺麗に色付いたタイミングでお皿にとって、煮立たせた出汁をかければ、かんたん揚げ出し茄子の出来上がり。ついでに晒していた玉葱を乗せれば、空いたおなかが温かく満たされる。
「へへ、愛してるよう、美紗都ちゃあん」
あつあつの茄子にかぶりつきながら、唯が言ってくれる。
「知ってた」
「えへへ、知ってたかあ」
残った分の茄子は冷蔵庫に入れて冷やしておけば、またこれが美味しい。
半分残ったミネラルウォーターも飲み干してしまって、丁度いい感じに膨れたおなかがたまらなく眠たくさせる。とりあえずお皿は流しに下げて、今日はもう眠ってしまおうかと思う。
「私は幸せ者だ」
「私だって幸せ者よ」
ベッドに潜ってから眠るまでの時間が、たまらなく愛おしい。