可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

変わるということ

※これは、既成の原作に基づいて書かれています。一部、創作というよりは写しに近いものであることを先に書いておきます。
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ひきわりの納豆は、贔屓目に見ても美味しくない。いや、この場合は贔屓目に食べても、になるのか。 自分で考えながらそのあほらしさに溜め息を一つ吐いて、買い物かごの中に三個パックのそれを放り込んだ。

言うまでもなく当然ながら、どこで吸っても煙草は同じ味がする。だけど吸うに即して適した環境というのもたしかに存在する。住んでるアパートから歩いて数分のところに小さな公園があって、以前たまたまそこを見つけてからは、そこで喫煙するようになった。
すぐ近くを流れる川の流れる音や、視界の奥に小さく映る車のテールランプなんかが、ぼんやりとした思考の隅に無理なく入り込んでいて、穏やかな気分になれるから、好んでこの場所を使うことにしていた。今日もきっかり二本ほど吸いきったところで、元来た道を帰る。腕時計を確認すれば、もう少しで日付が変わるところだった。
「やっほ」
誰かがアパートの塀に背を預けているのには、すぐに気付いた。
「あれ、私のこと忘れたかな」
それが彼女であることにも。

「なに、どしたの」
「何ヶ月ぶりかなー」
「つかお前、大学どうした」
「あー、いや、休学」
「今なにしてんの」
「散歩だと思う」
「こんな時間に一人でか」
「あはー、その」
「なに」
「実は、家賃払えなくなって追い出されちった」
「まじで。仕送りは」
「まじまじ。仕送りが一日間に合わなかっただけで」
「どうするつもりよ」
「しばらく知人にお世話になろうと」
「彼氏いたろ、そこは?」
「行ったんだけどねえ、ついさっき振られて」
「……おい、まさか」
「ごめん、今晩泊めて?」

「適当に上がって」
「お邪魔します」
自分の靴を靴箱にしまって居間へ先行する。部屋の明かりをつけて、上着をハンガーにかける。彼女が後から居間に入ってきて、ぐるりと辺りを見回す。
「相変わらず殺風景ね」
「無駄なものを置かないだけだから」
収納からクッションを引っ張り出して、彼女に投げて寄越した。受け取ってしばらく、彼女はそれを眺めた。
「まだこれ捨ててなかったんだ」
「まあね」
「だから彼女できないんだよ」
数ヶ月ぶりに彼女の笑顔を見た。
「ああ、彼女ならいるが」
「うそ」
「本当だって」
「部屋はこんな女っ気ないのに?」
「部屋に上げてないんだよ」
「というか、彼女いるのに私を泊めてくれるんだ」
「今から追い出してもいいんだけど」
「うそうそ、ごめんなさい」

「もしお腹すいてたんなら、なにか作るけど」
「んー、食べてないけどすいてない」
「わかった」
冷蔵庫から雑酒とベビーチーズとを取り出して、居間にある小さな丸テーブルに乗せる。用意したグラスになみなみと注いで、一口舐めてから、
「これからどうするつもりだ」
「決まってない」
「そうか」
チーズの包装を剥きながら考える。言いたいことも聞きたいことも、山ほどあった。だけど今この瞬間に言えることは何もなかった。
「風呂。もう遅いから、入って寝ろよ」
「一緒に入ろっか」
「後がつかえてるんだ、早く」
「はーい」
彼女はあの日のままで、まるで変わってないみたいだった。

「ふう」
「おかえり」
「まだ起きてたのか」
「ん、まあね」
「俺は大学あるから、もう寝るけど」
「一限から?」
「ああ」
「ちょっとちょっと、ソファで寝るの?」
「お前はベッド使いな」
「流石に悪いよ」
「そう思えるんなら家に上がり込むときにも思ってほしかったな」
「でも」
「いいから甘えとけ」

「ねえ、寝た?」
毛布にくるまって暫くじっとしていると、ベッドの方からか細い声が届く。何も返さない。彼女の方も一度声をかけたきり、他になにかを言うこともなかった。今更ながら彼女を家に上げたことを後悔した。
彼女は寝息を殆ど立てずに寝るものだから、朝、ベッドで彼女が死んだように丸まっているのを見ても驚いたりはしない。食パンを半分に切って、固焼きの目玉焼きを挟む。それにラップをかけて、テーブルに書置きを添えて置いておく。冷めないうちに彼女が起きてくれることを願いながら、だけど彼女を起こしてしまわないようにそっと玄関のドアを開けた。

「ただいま」
「おかえり、結構遅かったね」
「買い物してきたから」
「かなり買ったね」
「一週間分。まとめて買ってる」
「彼女さんは?」
「ああ、それで遅れた」
そう言うと、バツが悪そうに顔をしかめた。
「なにも言われなかったの?」
「なにについて」
「私のこと」
「だって、言わなかったし」
「私が彼女の立場だったら、嫌だよ」
「でも、仕方ないだろ。お前はお前で事情があることだし」
「ん、うん」
「昼飯、なに食べた」
「ごはんとお漬物」
「それだけ?」
「君の家だし、あんまり食べすぎるのもあれかと思って」
「ふうん、いまは」
「ぺこぺこです」
「正直でよろしい」
嘘が得意な人っていうのは、嘘の中身がうまいとかじゃなくて、嘘をついても心が痛まない、平気な顔をして嘘をつき続けられる人ってことなんだと思う。嘘は得意じゃない。

「納豆、買ってきた」
「ひきわり?」
「お前好きだったろ」
「嬉しい。覚えててくれたんだ」
「安かったから」
「それでも、ありがとう」
「で、今日一日なにしてたの」
「ゲーム」
「ずっとか」
「だってうちにはないし、するの久々だったから」
「そうか」
彼女は少し俯いて納豆をかき混ぜる。それをご飯に乗せることもなく、混ぜたそばから口に含むのを見て、ひどく懐かしい気持ちになった。彼女はいつもこうして食べていた。

「風呂も入ったし、寝るか?」
「まだ十時だよ」
「たって、することない。テレビも映らないし」
「いつもなにしてるの」
「本読んだり」
「本もそんなに置いてないじゃん」
「気に入ったもの以外は売ることにしてるから」
「相変わらずだね」
「かさばるより良いだろ」
「そういうところも変わってないね」
「……悪い、煙草吸いに出るわ」
「私もついて行く」
「あー、いまWinstonのストックないけど」
JPSでいいよ」
「一本だけだぞ」
「はーい」

彼女と連れ立って外へ。以前はアパート裏の空いたスペースで喫煙していたからか、公園へ続く道を歩くと、慌てて追いかけてきた。
「どこ行くの」
「いい場所があるんだ」
公園の奥に備え付けられた古い木製のベンチに腰掛けて、煙草を取り出す。一本引き抜いて彼女に手渡す。自分の分に火をつけてから、ライターも渡した。彼女は両方ともを受け取っておきながら、しかし中々吸おうとしない。
「ねえ、どうして泊めてくれたの」
その声には、困惑が滲んでいる。
「困ってたから助けただけ」
「そっか」
「いつか、もし逆の立場になったときは助けてくれな」
「やだよ」
「どうして」
「だって、つきあってないもの」
「辛いな」
「普通ならこう言うはずだよ」
「そうなのか」
「本当に、どうして泊めてくれたの?」
「別にさっきので間違いない」
「優しいんだね」
「今更?」
「ううん、知ってた」
そう言って彼女は、ようやく煙草に火をつけた。
「ここ、景色いいね」
「だろ」

「今日もソファなの」
「余計な心配はいいから」

「ねえ、起きてる?」
声が聞こえる。いつまで彼女はここにいるんだろう、と考える。別にいつまでいてもいいと思った。すぐにそれを自分の中で否定した。
「起きてるでしょ、ねえ」
耳を塞げば声は届かなくなるだろうけど、届かなかった声の行き先を思うと、できなかった。
聞こえてくる声が涙で潤んでいたわけでもないのに、どうしてだか想像の中の彼女は泣きじゃくっていた。
「なに」
「こっち、きて」
「そんなこと言うから軽い女だと思われるんだ」
「軽くないよ」
「つい昨日まで彼氏いたくせに」
「生まれてこの方、一人しか身体、ゆるしてないもん」
「……だからなんだよ」
「なにも?」
「つか俺彼女いるんだけど」
「やましいの?」
「いや、そうでもない」
「だったら、おねがい」
二人は本当に不仲で別れたのだろうか。時々その辺りを考えてしまう。

「きてやったぞ」
「ありがと」
「一緒に寝るだけだからな。それ以上はないから」
「うん」
「おやすみ」
「なんで壁の方向いてるの」
「そりゃ、変な気が起こらないように」
「変な気、起こるんだ」
「俺だって男だ」
「もう大人だもんね」
「その言い方やめろ。これでいいだろ」
「ふふ。相変わらず平凡な顔」
「うるさい、お前も変わり映えしないくせに」
「変わってほしかった?」
「そうじゃないけど」
薄暗い部屋の中で、囁くように言葉を交わす。もう戻らないと思っていた夜は、こんなにも呆気なく訪れる。その心地よさに、身をよじって喜んでしまいそうになる。それを感じているのは自分だけじゃなかったのだろう、
「なんだ、泣いてんのか」
「ねえ、なんでこんなに懐かしいのかな」
「俺にもわからない」
「君も同じ気持ち?」
「きっと」
「じゃあ一緒に泣いてよ、ばかやろー。私だけかっこわるいじゃん」
「多分俺の分まで泣いてくれてるんだろ」
「ぐすっ、感謝してよね」
「ああ」

変化は、何にもついてくる。世の中のものは一つとして変わらないものはないし、そんなことを考えている今も微弱に変わり続けている。問題はその変化すべてが、良い方向へのものではないということで、彼女との関係が破断した直後も、その変化によって相当に苦しめられた。
変化についていけない人間は言外に否定され、見捨てられてゆく。俺は誰に見捨てられて、誰に見捨てられなかったのだろう。
「彼女がいるなんて、嘘でしょ」
「なんで」
「君の性格から考えるとね。確証はないけど」
「どうだろうな」
「ねえ、私たち、やり直さない?」
「どうして」
「さっきからそんな返事ばっかり」
「茶化さないで」
「ええとね。君のいない私を知って、出た結論がそれなんだけど」
寝転びながら、俯いた。彼女の顔を直視できなかった。もういい大人の男なのに、子供みたいに泣いてしまいそうだった。いっそ泣けたらどんなに気持ちが楽だろうと思った。
「また、喧嘩になるかもしれない」
「するかもしれないね」
「また、お前に出ていかれるかもしれない」
「もうそんなことしない」
「また、一人になるかもしれない」
「……あの時はごめんなさい」
「……」
「戻るに戻れなくなったの」
「……もしも、その話が本当だったとして」
「うん」
「また関係が戻ったとして」
「うん」
「もう一度繰り返さないとも限らない」
「そうしたらもう一度、家賃が払えなくなって追い出されたらいいのかな」
彼女は真剣に話をしているつもりなのかもしれないけど、つい吹き出してしまった。
「何度繰り返せばいいんだ」
「何度だって、するから」
昨日の夜、彼女と再び会った瞬間に、すべては決まっていたのかもしれない。あるべきものがあるべき箇所に落ち着くように。その先に待つ未来が、仮に悲惨なものであったとしても。

「今日はもう寝よう、疲れたろ」
「うん、そうだね」
横になりながら、彼女は何度か目を擦る。一度だけ頷いて、眠りについた。ほどなくして、俺も。

「解約の話ついでに、私物の色々をここに持ってくるね」
「こっちは大家に居住者が増えると伝えとく」
「一緒に住むの、久しぶりだね」
「前はでも、週の半分ぐらいだったろ」
「これから、またお世話になります」
「これからもよろしく」
物事には絶えず変化が付きまとう。成長や衰退なんかに名前を変えて、そこかしこに偏在する。それを避けて通ることはできなくて、受容するしかないのだから、そうするのが少しだけ難しいと感じても今はただ、彼女と手を繋いで肯定的に受け入れる。