映画を鑑賞する話 / した話
大学最後の春休みを謳歌したいなあ、と思って真っ先に思い浮かんだのは、映画館に行くことだった。通い始めてまだ何年も経たないが、映画館の持つ魅力にすっかり囚われてしまった。
通い慣れた劇場に赴き、購入したチケットを提示して入場すると、長くまっすぐ伸びた通路がおれを待っている。映画館特有の匂いがする。知らない人の車に乗ったような、少しそわそわする感じの。スクリーンに入り、薄暗い中、自分の席に座り込む。
上着を脱いで、膝にかける。携帯はこの時点で電源を切り、しまっておく。観るにあたってなるべくストレスの発生しない環境を作ることは、映画を鑑賞する際に最も重要だといえる。
やがてスクリーンにあかりが灯り、他の映画の宣伝が始まる。これも含めて映画だと思う。挟み込まれる一般企業のコマーシャルはここ数年同じ会社のものしか流れておらず、ゆえにそれを目にすると「映画に来たんだなあ」と実感する。
やがて照明が段階的に落とされてゆき、映画が始まる。
始まる瞬間が、たまらなく好きだ。
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以下、ドラえもん劇場最新作について言及します。
観る予定のある方は、読まない方がいいかもしれません。
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ドラえもんの映画を劇場で鑑賞したのは、初めてかもしれない。
VHSでは何本も見た経験はあるのだが、大きなスクリーンで観るのとの違いは、想像できなかった。そもそも劇場版に限らず、ドラえもんというコンテンツに最後に触れたのは、十年以上も前のことだった。
声優が変わり、昔の映画をリバイバルした映画が出ているというのが、現在のドラえもんに対して抱いていたイメージだった。
そもそもどうしてそんなドラえもんの映画を観に行こうと思ったかであるが、ひとえに親友が勧めてくれたからだ。最近のドラえもん映画はすごいぞ、と。
その彼がどうしてドラえもん映画を観るようになったかは知らないが、なにかと趣味嗜好の合う彼が真剣に勧めてくれるので、ひとつここは観てみるかということになった次第だった。
世辞は一切抜きにしても、個人的には傑作だったと思う。
内容に言及する前に、見ていただきたいのが、映画のイメージボードである。全七種類存在するのだが、これが憎らしいほど心にくる。
その内の四枚を上に乗せたのだが、これのなにがいいって、ストーリーのフレーバーが一目でわかることだ。荘厳で神秘的な南極の景色と、テキストから伺える物語の展開。ソリッドでないタッチで描かれたボードに魅了されてしまった。
映画本編の内容も、個人的には大変満足のいくものだったが、観ているうちにどうして自分がこんなにも楽しめているのかがわかった気がした。
幼少期に好きだった作品が、現代の映像技術によって鮮やかに描かれていることが、嬉しくないはずもなかった。
ひみつ道具のデザインに説得力があり、その描き方にセル画にはできない瀟洒さがあり、それらが生み出す効果にリアルさがあった。こんな道具をこういった風に使用すればこういった結果、現象を引き起こすといったことが、丁寧な絵や説明でもって表現されることに、感動さえ覚えた。
現在のドラえもん映画のターゲット層は、間違いなく現在の子供だろう。しかし、今作は少なくとも大人が観ても楽しめる内容だろうと思う。
粗を探せば幾らでも見つかる映画だと思う。それなのに、こんなにも気にならないのは、単純にこの作品が好みなのだろう。
雪と氷の描き方、音響、ストーリー。どれを取っても美しく、それでいてそれらを押し付けていない感じが良かった。十万光年先の星を想いながら、ここいらで筆を置く。
音楽のあった風景
思い返せば、小さかった頃から音楽というものが好きだった。聴くほうはまずもって機会があまりなく、好きか嫌いかの判別もろくにつかなかったけど、歌うほうは好きだった。声変わりするまでは高い声も普通に出せたし、何より大きな声を出せることが気持ちよかったのだと思う。
中学に上がって、吹奏楽を始めた。楽譜も音楽記号もわからなかった俺が任された楽器は、チューバというもので、巨大な金管楽器だった。ものによっては十数キロにもなるほど重く、とても低い音の出る楽器だった。
その頃の自分は、特に音楽をやりたいという強い感情もなく、周囲の環境に流されるのに身を任せていたから、始めて暫くは何の感慨もなく練習をするばかりだった。音楽をするというよりは、そこで知り合った人達とコミュニケーションをとることがメインだった時期もあった。吹奏楽に限らず音楽というものには発表会などの本番がある。今考えれば当たり前なのだが、本番の時以外は、ひたすら練習をしなければならないのだ。
音楽は一日にしてならず、演奏の上達にはまとまった時間を要する。呼吸法を改め、肺活量を養うために持久力をつけ、単純に見える練習を毎日しなければならなかった。勿論休みも殆どない。休むだけ身体は鈍り、コツを忘れてしまう。中学生だった自分は、早々にやめてしまいたいと思うようになったが、これは結局、大学に上がって暫くするまで続くことになる。ひとえに、音楽というものの魅力に捉えられてしまっていたのかもしれない。
かくして中学生活は吹奏楽漬けになった。毎日放課後になると部室に集まり、合奏練習などがなければ、放課後の空き教室を利用して楽器ごとに分かれて練習をした。しかし、ほかの文科系のクラブも放課後に教室を利用して活動するところが存在したので、どうしても教室で練習することがかなわず、廊下で練習しなければならない部員が発生した。
話は変わるが、例えばクラリネットやトランペットなどの花形の楽器などはとても人気があって、三学年合わせて十人、二十人と大所帯になるのだが(また、楽曲の編成上、それだけの人員を必要とする側面もあるのだが)、ことチューバという楽器は、二十人の編成に一人いれば十分であるといった立ち位置にあるので、三学年合わせて、編成的に二人から三人という塩梅になる。
つまり何が言いたいかというと、人数的な関係によって、チューバは廊下で練習することが殆どだったのだ。校舎三階の端、理科準備室の前だった。埃っぽく、また、廃材なんかも転がっていたりして、環境としては決して最高のものではなかったが、当時を振り返る際に、真っ先に浮かぶのはその景色だった。夏はうだるほど暑く、冬は震えが止まらなくなるほど寒い。だけど、その場所のことが好きだった。そこで飽きるほど、飽きても尚吹き続けた記憶は、どこか心地よいものだった。
そして何よりおれは、人間に恵まれた。中学の頃の先輩や同級生の九割は、思い返すのも嫌になるほど嫌いだったが、残りの一割の人間が、音楽を続けるモチベーションになり得た。彼らのお陰で、何とか音楽を嫌いにならないまま高校に進学できたといいきってもいい。感謝してもし足りないとさえ思う。
高校に上がって、特に迷うこともなく吹奏楽を続けることにした。多数のイベントに出演し、演奏をした。そうでない時は練習をした。(有難いことに高校では、
練習するための教室があった)
高校一年の冬に入った頃だろうか、不思議と音楽が好きだと自覚するようになった。毎日の練習は相変わらず単調に感じたし、ずっと真面目に練習を続けてきたともいわないが、それでも、そんな日々を気に入っていることに気付いた。
また、高校でもおれは、周囲の人間に恵まれていたのだ。しかも今度は、周りにいた誰もが素晴らしい人間だった。ここにもたしかに、人間関係の軋轢があったり、口論の絶えない人間もいたが、そんなものは一部分でしかなくて、基本的には皆、輝かしい人間だった。
おれは今でも成熟しきっていないが、当時は今よりももっと酷く、人間的に未成熟だったあの頃の自分と関わって、なおかつ向き合い続けてきてくれた彼ら彼女らにも、感謝の念は絶えない。
音楽が好きだと自覚できた頃には、チューバという楽器において、大抵のことはできるようになった、或いはできるように見せかけることはできた。大体どんな吹き方をすればどんな音が出るのかとか、フレーズごとに適した吹き方なんかが、感覚的にわかるようになったし、それを演奏という形で表現することができたと思う。
誤解のないようにことわっておくと、当時の自分もまだまだ下手だったし、もっと上手い人間なんて、自分が観測できる範囲の中にさえ沢山存在した。あくまで自分の思うように、吹きたいように吹けるようになったという意味合いにおいて、おれは上達していた。幸い音感に見放されていなかったため、ある程度のレベルには到達できていたと思いたい。腕試しにと、県内の高校生の中から、希望者を募ってオーディションを募り演奏会を開くといった催しに参加し、何の因果か県の代表の一人に選出されたこともある。
そういうわけで、それ相応の時間をかけて上達し、今現在はその楽器から、演奏活動自体からさえ離れて久しいが、折に触れては当時のことを思い返すことがある。
当時の自分が、何を考え、どのように演奏していたかを思い出すことは最早ないが、どんな気持ちでいたかはまだ思い出せる気がする。当時の自分が何について悩み、何を成しえないままに終わってしまったのかなんて、もう今のおれにとってはどうでもいいことなのかもしれないけど、立派に悩んでいたことだけは思い出せるし、無駄じゃなかったと思う。
春には新入生歓迎会での演奏、夏には吹奏楽の大会、秋にはアンサンブルコンテスト、そして冬には定期演奏会と、季節に紐づいて当時のイベントが思い起こされる。現に、顔も名前も知らない後輩達は今この瞬間も、青春を送っているのだ。様式や人員は変わり、おれがいた時と完全に状況が同じであるはずはないが、それでも、おれが日々を費やしたあの空間で、まだ音楽が鳴っていることを想像すると、どこか幸せな気分になれる。
何かの拍子にふと自分が演奏した曲のフレーズを口ずさんで、こんなことを思った夕下がり。気まぐれに文章に起こしてみた次第。
我流ペペロンチーノ
大きめの鍋にたっぷりと水を張り、火にかけておく。
沸騰次第塩を一つまみ振りかけ、スパゲティを入れる。麺がある程度曲がるようになるまでは、丁寧に菜箸で麺同士がくっつかないように混ぜる。
しめじ、えのきを適量、にんにくを二欠けほど、鷹の爪を少しだけ用意する。
きのこ類は根元の部分だけ切り取って、あとは手で適量にもぎっておく。好みでえのきは二分してもよい。
にんにくは皮を剝いて細かく刻んでおく。好みで、包丁の腹で潰してもよい。
鷹の爪は輪切りであれば何でもいい。少しくらい大きくても構わない。
フライパンにかなり多めにオリーブオイルをひき、火にかけて温まったら先ずにんにくを炒める。オリーブオイルでなければならないことはないが、独特の風味が合うので使用を推奨する。
にんにくが色付き始めるあたりで油ににんにくの香りが移るので、きのこ類、鷹の爪を炒める。
十分火が通ったタイミングで茹で上げたスパゲティを投入する。混ぜる。
茹で汁もフライパンに移し、乳化させる。乳化を簡単に説明すると、油分を中和する作用のこと。
味が絡まったら完成。好みで皿に盛ってから油をかけても、刻み葱をかけてもよい。
コツとしては、油をかけることをためらってはいけない。
晩夏と茄子と
掬いあげた水が、器をかたどった手のひらから零れるようにして、目が覚めた。
夏の終わりにしては、空気はひんやりとしていた。隣を見遣ると、安らかな寝息を立てている恋人がいる。顔を寄せて、まじまじと見つめる。少しだけ間の抜けた寝顔にキスしてやりたい衝動をおさえつけて、身体を起こす。
辺りはどうやら真夜中だった。
二人に掛かっていたタオルケットを抜け出して、暗闇の中、部屋を歩く。キッチンに赴いて、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのボトルを引っ張り出して、キャップを回す。
週末だからか、冷蔵庫の中が寂しい。
大きな扉の内側で、ぱっと目につくのは、卵と、冷蔵しなければばらない調味料と、缶ビールだけだった。
ついでに野菜室を開けると、ピーマンと茄子と玉葱が幾つか。
冷凍庫にはカップアイスが入っていた。
空腹なのか、そうでもないのか、判別の付きづらい具合だったので、なにか丁度いいものがあれば食べてしまおうかと思っていたけど、諦めることにした。時間帯も時間帯だし。
水を喉に流し込むと、気管から胃にかけて、さあっと冷えていく感覚が気持ちいい。
冷やされているという自覚をもって、私は胃の形を感じる。昨日の晩に食べた白身魚のムニエルは、もう融けてしまっているだろうか。
半分ほど飲んで、またキャップをする。明日は買い物に行かないとな、なんて思いながら、ボトルを冷蔵庫にしまいこみ、キッチンを後にする。
相変わらず夜闇は深いままなのに、目が慣れてしまってか、色々と見えるようになった。部屋の中央にあるガラステーブルに、片付けられないまま置いてあるビールの空き缶が二つあることも。
そのまま寝床に戻る気分でもなかったから、わたしは引き出しから、ライターと煙草と、灰皿を取り出す。網戸を開けて、ベランダに出る。
風が気持ちいい。
エアコンの室外機に腰掛けて、暫く景色を眺めてから、煙草に火をつけた。
アークロイヤルのアップルミント。吸うと、煙草の味はもちろんのこと、紅茶のフレーバーが味わい深い。他のものと比べると少しだけ値は張ってしまうけど、もっぱら私が好んで喫煙するのはこれだった。
たっぷり時間をかけて、二本吸うと、身体じゅうに煙が回ったような錯覚を覚えて、気分がふわふわしてくる。そろそろ寝ようかなと思って、部屋の中に戻る。
物音を立てないように気を付けながら、ベッドに潜りこむ。タオルケットを掛けなおして、恋人の肩に頭を寄せる。植物が芽吹くように、眠気がやってくる。
「また煙草吸ったんだね」
眠っていたとばかり思っていた彼女が話すものだから、驚いた。
「起きてたの?」
「美紗都がキスしようとしたとこ辺りからかな」
「結構起きてるね」
二人して笑い合う。その波が収まると、自然なことのようにくちびるを重ねた。
「紅茶のにおいがする」
楽しそうに彼女が言う。
次の瞬間、彼女のおなかが可愛らしい音を立てた。
「ねえ、美紗都」
「うん?」
「おなか空いちゃった」
なんでこの子はこんなにも愛らしいんだろうと思いながら、私は微笑む。
「そういえば冷凍庫にアイスがあったけど、唯、食べる?」
「んん、アイスかあ……」
「ピンとこなかった?」
「そういうわけじゃないんだけど、ねえ」
ベッドに寝そべったまま、私と唯は黙りこくる。
「まあ、ちょっと寒いもんね」
私がぽつりと漏らすと、彼女は頷いた。
「おなか冷えちゃうからね」
でも、困ってしまう。
彼女に触発されて、私もおなかが空いてきてしまったのだ。
だましだまし、眠ることもできないくらいには。
「ちょい待ってて」
ベッドを抜け出て、再びキッチンの方に向かう。キッチンの蛍光灯だけ点けて、中華鍋に油をひく。
IH調理機は、加熱温度を調整できるから、便利だと思う。百七十度に設定して、油が温まるまでの間に野菜室から茄子を幾つかと玉葱を取り出す。
玉葱は皮を剥いてイチョウ切りにして、水に晒しておく。
茄子は縦に半分に切って、背中に幾筋か切れ込みを走らせる。
雪平鍋に出汁と醤油とみりんをいれて、一煮立ちさせる。
油の温度が十分に高まってきたら、そこに茄子を沈める。
二、三分ほどで茄子の色が綺麗に色付いたタイミングでお皿にとって、煮立たせた出汁をかければ、かんたん揚げ出し茄子の出来上がり。ついでに晒していた玉葱を乗せれば、空いたおなかが温かく満たされる。
「へへ、愛してるよう、美紗都ちゃあん」
あつあつの茄子にかぶりつきながら、唯が言ってくれる。
「知ってた」
「えへへ、知ってたかあ」
残った分の茄子は冷蔵庫に入れて冷やしておけば、またこれが美味しい。
半分残ったミネラルウォーターも飲み干してしまって、丁度いい感じに膨れたおなかがたまらなく眠たくさせる。とりあえずお皿は流しに下げて、今日はもう眠ってしまおうかと思う。
「私は幸せ者だ」
「私だって幸せ者よ」
ベッドに潜ってから眠るまでの時間が、たまらなく愛おしい。
彼にまつわること
飼い猫が息を引き取ったのは、軍隊の行進のように終りの見えない、梅雨のある朝のことだった。
僕は泣きこそしなかったけど、それから暫くは生活のすべてがどこか噛み合わせの悪い歯車のようにぎこちなくなってしまった。今はもう、乗り越えられていると思う。それとも、乗り越えられているように振る舞えている。
彼 (僕はその猫をそう呼ぶ) が息を引き取った瞬間のことを思い出そうとしても、僕はその瞬間に聞こえた控えめな雨の降る音と、カーテンから差し込む弱々しい陽光以上に鮮明な景色を脳裏に浮かべることができない。
彼の魂は、そんな中を漂ったのだと思う。雨に打たれながら、空へと昇ったのだと思う。
それでも、彼の生涯を終えるにしては悪くない季節だったと思う。
僕が穏やかな日々を過ごす上で留意すべきだと感じることは幾つかあって、そのひとつは老衰だ。
身体の機能が僅かに狂いつつあることを実感し、嗜好が流動的に変わっていることを自覚する度に、人間として成熟するというよりは、衰えに近い感情を抱く。
止めようとして止められるものではないし、僕は受け入れることしかできないし、それは人間のみならず、猫にも同じことがいえる。彼は僕の、たった一匹の伴侶だった。
彼がその瞬間を迎えるまでの数日間は、自分で真っ直ぐ歩くこともろくにかなわず、水や食事も摂らなかった。
だから彼の今際の際が、眠りにつくように穏やかだったことだけが救いだった。
エメラルドグリーンの瞳が、側で看る僕を捉えるのを、僕は怯えながらやり過ごした。そのガラス体は、どこまでも透き通っていたからだ。
猫は言葉を話せない。
だけれど、彼は僕に目線で語りかける。
目線でもって、なにを僕に伝えたいのかなんて、僕の解釈に委ねられるのだけど、そんなことはどうでもいい。
横たえられた彼の、やせ細った身体を撫でると、すんと鼻を鳴らして、彼は尻尾を揺らす。
そして、アンプのつまみを絞るようにして彼が途絶えるのを看取りながら、僕の中に備わった歯車が、少しだけ、それでもたしかに、どうしようもなくなってゆくのを感じた。
エメラルドの鮮やかな輝きを、梅雨の朝が来る度に思い出す。
鈍く明るい空の上から雨が降る度、僕は彼の魂が、きちんとあるべき場所に辿りつくことを願う。
とうの昔に、辿りついているのかもしれないけど。
文体模写(6/11)
「つまりあなたは、未だに手を付けてすらいないということね?」
僕の目の前にいる彼女は、音叉を用いて音程に狂いがないかを確かめる神経質な音楽家のように、僕に尋ねた。尋ねたというよりは、意味合いとして、断定した。
僕は鷹揚に頷く。というのも、その問いかけ――或いは、断定――に対して明確に肯定する心持ちではなかったからだ。もしも彼女が許すなら、僕は安易に頷いたりはしない。しかし、彼女の言葉自体に対しては、否定ができないのだ。
事実として僕の原稿用紙は、果たしてなにも、一文字も、点や線などの記号も、子供がするような意味合いを持ち合わせない何らかの模様すら描かれていないのだ。
「頭の中には、大まかなビジョンがあるんだけど」
注文したアイスコーヒーのまずさに顔をしかめそうになるのを苦心して抑えながら、それでも僕の言葉の響きは苦々しくなってしまった。それに、ビジョンなんてものも存在しないのだし。
「わたしが考える、世にいう文筆家っていうのは、スタイルや書く中身に様々な違いはあれど、みんな形のあるなにかに文字を並べていると思うのだけれど」
彼女は完全に隠すこともなく顔をしかめながらアイスコーヒーを啜り、続ける。
「あなたは文筆家ではなかったのかしら。それとも、」
僕は平手を目の前で振って見せて、彼女の言葉を制した。どうせこれに続くのは迂遠な言い回しでもって僕をじわじわと絞め殺すだけのフレーズに過ぎない。これは彼女の癖で、例えばAという事象を誰かに伝えたいとき、彼女はBではない、Cでもないと、25通りの否定の言葉を用いるのだ。
「いま書こうか」
それから鞄からA5サイズのルーズリーフと0.7mmのボールペンを取り出して、一度だけボールペンをノックし、用意した紙の左上辺りを何度かペン先で叩いた。
「そうしようとしてできるなら苦労はないとは思わない?」
「できるからそう言っているんだよ」
彼女のクエスチョンマークに被さるぐらいのタイミングで、僕は返す。辟易したというにふさわしい表情で、彼女は僕を見据える。一体その表情の何パーセントが、アイスコーヒーによるものなのだろう。
「これはあなたにとって呪いのようなものだと思うのだけど」
「呪い」と、僕は言葉を拾う。
「そう、呪いよ。刻印のようにあなたに埋め込まれているように思えて仕方がないわ」
「一体それはなにについての呪いなんだろう」
僕はそう尋ねたが、彼女はもう僕にまつわる呪いに関しての興味を完璧に失えてしまったようで、頬杖をつきながら僕の持つペン先を眺めている。
アイスコーヒーはグラスにまだ半分ほど残されていて、どうも僕にはこれが負の遺産のような気がしてならない。
「CLANNAD」というものについて
相も変わらず就職活動は佳境であって、どこも落ち着いてなどいないのだけど、久々に自発的になにかを書きたい気分になれたから、興味が消えいってしまわないうちになにかを書き付けたいと思う。
皆さんは「CLANNAD」をご存じだろうか。知っているとして、それについての知識はどの程度のものだろうか。例えばそれをゲームが原作の作品であることを知っている方もいるだろうし、一時期インターネット上で流れた「CLANNADは人生」というスラングめいた文字列を知っている方もいるだろうと思う。
そう、「CLANNAD」というのは主に、タイトルにその文字を冠するとあるゲームのことをいい、少し時代は遡るが一部界隈では爆発的に流行したもので、本稿で俺がいままさに取り上げようとしている題材のことである。
「CLANNAD」は「クラナド」と読む。恐らくその呼び方以外の解釈は存在しない。その名の由来までは知らない。
俺がそれについて知ったのは、中高生のころだったと思う。適当にインターネットをいじくっていると、「CLANNADは人生」というフレーズを目にした、というのが出会いであったように感じる。当時の俺は、特に興味を持つこともなく流したのだと思う。
ほどなくして、「CLANNAD」がPCゲームであるらしいことを知った。
そのころには、「CLANNAD」というものがどうやらプレイすると感動で泣けるゲームであるらしいことを知った。
きっと、人生観を引っ繰り返すほど泣けるから「CLANNADは人生」なんてワードが生まれるんだ、という程度に思ったが、このときも興味などは特に抱かなかった。
当時は、泣けるという謳い文句のついた映画などを観賞しても一向に涙の出る気配を感じなかった自分であるから、なにが人生だと笑い飛ばすばかりで、寧ろそんなもので転覆する人生観を馬鹿にする立場にいた。
そのゲームを購入したのは、大学二回の冬であった。
当初はプレイステーションVITAを購入したばかりで、大したソフトなどを持ち合わせていなかったので、中古のゲームショップをまわって、手頃なソフトを買い求めていた。
そして、そこにあったのが「CLANNAD」である。
元々はPCのゲームとして販売されたそれは、プラットフォームを変え、市場に出回っていたのだ。
それをゲームショップで発見して、一番初めに感じたのは、中古にしても値が張るということだった。他の新作のソフトと大して変わらない値段で売られているそれを見かけたとき、なんの気まぐれか、「一度やってみるかあ」と思って、購入したのが運命の分かれ道だといまにして思う。このとき、見向きもせずに他のゲームに手を伸ばしていれば、いまこうしてブログを書く自分もいないし、このゲームによって流れた数リットルの涙は、俺の体内を循環し続けたのだろうと思う。
値が張るということについては、「CLANNAD」がいわゆる普通のゲームとは異なり、主にテキストを読み進めてゆく形式のゲームであるということで説明がつくと思う。
すなわち、ゲーム内容におけるプレイヤーの役割が本でいうところのページめくりであるということで、いわばゲームの代金はシナリオ代になる。当然絵や音楽がつくので、単なる本とはまったく違う。このゲームはシナリオだけではない。
さて、そういった経緯もあって購入した自分であったが、すぐにはプレイしなかった。
買っただけで満足してしまって、プレイするまでには至らなかったのである。
そうして実に半年以上の月日がそこから更に経過し、大学三回の夏になる。
ついにゲームを始めるのだ。
突然だが、本稿では未だプレイしていないひとのことを考慮して、ストーリー内容については触れないでいようと思う。ストーリー内容に触れるのは別の記事にしようと考えている。ここで筆を置く。
lapis lazuli
立っているだけの状態を止めて、一歩右足を前に投げ出して踵から着地する。
体幹は未だ前方に傾けられたままなので、このままなにもしなければわたしは左寄りの前方に倒れ込んでしまう。
倒れるとまた立つまでに動作と時間を要する。要すると、要された時間と動作は失われる。
失われてしまうのは嫌だった。
転んでしまうことを防ぐために、わたしは惰性から左足を前に投げ出す。奇しくもそれは歩容の形態をとる。今日はいやに瞼が重い。睡眠なら充分とっているはずなのに。
わたしが進む先は前で、わたしが進んできたのは後ろからだった。
青い青い、どこまでも青い地表。地平線は遥か遠くにあって、地平の上にはまた青い空があった。
はっきりとした群青色に染まった地表と、それをそのまま輝度を上げたような空と、白い衣服を身につけたわたし。
この世界を構成するのは、たったその三つ。
わたしは歩みを進める。わたしの足先が地表に触れるたび、地表はわたしの足先を中心に同心円状の波紋を広げる。三歩進むと三つの波紋が広がり合い、強め合い、弱め合い、決してなくなることはなく、わたしを中心に遠ざかってゆく。
この地表は固体でもなく、液体でもなく、ましてや気体ですらない。ただ、波打つことだけが事実だった。
わたしが歩く後ろにはもう幾つもの波紋が生まれ、なにか、地図のような柄が形成されては、すぐにほどけて散ってゆく。
どこまでも青い地表を舐めるように走る輪っかの広がりは、地平線のその先を目指してゆく。遥か遠い彼方には、果たして青以外のものがあるのだろうか。
そのうちにわたしは歩くことも億劫になって、空を飛ぶ。宙に浮かぶのは歩くよりもかんたんだ。
念じるだけでいい。
念じれば、それだけで。
二メートルほど舞い上がり、少し高すぎたので一メートルほど下がってみる。
大切なのはイメージをすること。イメージをして、それを疑わないこと。
両足を少しだけばたつかせて、エーテルの触り心地を確認して、わたしは意識を前に集中させる。
最初はゆっくりと、次第に少しずつ速く、わたしは地表から凡そ一メートルほどずれた座標をすべる。
ああ、でもまだ少しだけ眠い。午睡をとってしまおうか。
首をもたげる魔性の言葉に折れてしまいそうになりながら、わたしは滑空を続ける。
ふと下をみれば微小に湾曲した波がわたしを追いかけてくるのがわかる。
わたしを呑もうとせんばかりに。
青い。
青という意味を知ってか知らずか、わたしは意識を醒ましてから目にする色にそういう感想を抱いた。
わたしは、わたしの衣服の白(だと思っている色)とそれ以外のすべてを占める青(だと思っている色)しか知らない。
本当は他にも様々な色を知っているのかもしれないけれど、そうだとして、覚えていない。
そうして進む理由もわからないまま、ただわたしは惰性に流されるままに進行を続けている。
進行するのだから当然わたしは前に進んでいるのだろうし、前に進んでいるからにはどこかに辿り着かなければならない。
朧気にそんなことを考えながら、一向に変わろうとしない世界をわたしはたゆたう。
ああ。風を切ってエーテルの中を流れていると、あまりに心地が良いせいだろうか、いよいよわたしは目を開けていられないほどになってしまった。
徐々に飛ぶ速さを落として、そのままエーテルに身体を預けるようにして、自分の身体が完全に速さをなくしてしまわないままに、わたしは意識を放り投げた。
最後に覚えている色もまた青だった。
青い。
わたしは目を醒ましてまずそう感じた。
どこまでも濃い青い地平と、その上に乗っかった薄い青い空。白く鈍く発色しているわたしの衣服が眩しい。
地表に寝そべる姿勢から身を起こして、その場に立ち上がる。
満身に濃いエーテルが充満しているのが感じてとれた。
なにも思い出せない頭を捻って、どこかへ向かえばなにかを思い出せるのではないかと期待して。
失ったかもしれないなにかを、また拾えるのではないかと期待して。
義務感というよりは惰性から、わたしは右足を前に投げ出す。
cherry blossom
生まれ変わったら桜になりたい。
春が来る度に、ぼんやりと、だけど何度もそう思う。
なぜそう思うようになったのか、きっかけは思い出せない。
スーパーへ買い物にいった帰り道を唯と連れ立って歩きながら、沿道に植えられた桜並木に目をやる。
昨晩降った強めの雨のせいで、花弁の七割ほどが地面に濡れ落ちてしまっている。
黒々とした幹は、まるで墓標のように植わっている。
梶井基次郎だったろうか、桜の樹の下には屍体が埋まっているといった旨のことを書いた作家のことを断続的な思考の先に考える。
隣を歩く彼女に肩を叩かれて、半ば遊離させていた意識をそちらに傾ける。
夕飯をなににしようか、と彼女と話しながら、私の頭の中には、イメージとしての桜の樹が焼き付いて離れない。
二人で住むにしては、あまり広いとはいえないマンションの一室で、大学に入学した頃から私は彼女とルームシェアをして暮らしている。
部屋はあまりものを置く余裕がないためか、簡素な印象を受ける。
出先から家に帰る度に、ああ、うちはものがないな、と思う。
生活感が薄いとかではなくて、単純にさびしい。
娯楽につながるものといえば、テレビと本棚ぐらい。
その日も家に帰りついてから、私はいつものように、ものがないなあと頭の中で独りごちる。
スーパーで購入した食材を冷蔵庫に仕舞い込みながら、私は妙な納得をした。
この部屋に抱く印象は、まるで桜にそっくりではないだろうか。
最低限あるべきものがそこにあるだけで、それ以上のものはもたないし、なによりそうするだけのキャパシティがない。
それは、私がかねてから、桜に対して似通ったことを感じていたことだった。
桜は、一年にたった数週しか満開の季節を持たず、それ以外は殆ど見向きもされない。
静寂と停滞を綯い交ぜにしたような植物だと思う。
だからこそ私は、桜に対して憧れのような感情を抱いていたのかもしれない。
だからこそ私は、桜という樹を好きになったのかもしれない。
かしゅ、と可愛らしい音を立てて、缶ビールのプルタブを上げる。
軽めの夕飯をとったあと、私と彼女はテレビもつけず、音楽もかけず、お互いの息遣いを聞きながらお酒を飲んでいる。
「美紗都はさ」
唯が缶を片手に私を見つめる。
「いつまで続くと思う?」
彼女のその問いかけには主語がついていなかったが、なんてもわかった。
なにが続くかなんて、私達の関係以外になにもないだろう。
この部屋にあるものは、私達を除いて他には、すべて停滞してしまっているのだから。
私達は、お互いを愛している。
相手のことを一番に考え、相手の為にはたらき、愛情を注ぎあって生きている。
だから、度々確かめてしまいたくなるのだ。相手が本当に愛するべき相手であることを。
癒えない傷を舐め合うように。
いつまでこの関係が保てるかなんて、遠回しなやり取りでもって。
私は彼女から尋ねられるごとに、彼女への気持ちの大きさを改めて自覚する。
そして膨らみ続ける思慕の念を、満身で彼女に伝えるのだ。
桜に囲まれて私達は、一度だけ唇を重ねる。
お互いが自然に顔を寄せて、お互いが自然に目をつぶり、降り積もりゆく花弁に、相手を見失わないように。
「生まれ変わっても一緒だと嬉しいけどね」
私は月並みな言葉を呟く。
別に言葉なんて、あまり重要ではないのかもしれない。
私達は信じ合う以外に、共に生きる術を持たないのだから。
二人で寝そべっても少し余ってしまうサイズのベッドに身体を投げ出して、手の指を絡めて、浅く息をする。
暖かな体温を隣に感じながら、意識が微睡んでゆくのを自覚する。
「生まれ変わったら、桜になりたいな」
彼女が唐突にそんなことを言うものだから、私は驚いてしまう。
「どうして」
内心の驚きを悟られまいと思いながら、私は彼女に尋ねる。
「だって美紗都、桜が好きでしょう?」
彼女はこともなげに、そう言って微笑むのだ。
限りなく桜に似たこの部屋で。
唇に感覚が新しい私に向かって。
いっそ二本の桜に生まれ変わって、来る年も来る年も隣り合って咲ければと、心の底から誰かに祈りながら、私は意識を手放した。