可逆的選択

趣味で書いています @yadokarikalikar

鍵盤をたたく

「なんかお前のピアノは聴いてて落ち着くわ」
直樹が珍しく真面目な顔をしてそんなことを言うので、佳奈は鍵盤を弾く手を止めて、彼の方を向いた。
「どうしたの、急に」
「いや、別に。ていうか続けてよ」
「なにそれ」
照れくさそうに少しだけ笑ったあと、ちょっとだけ澄ました顔で佳奈は再び鍵盤に向き合ってさっき手を止めた辺りから弾き始めた。音色は柔軟性を帯びながら彼女の傍から紡がれてゆく。音と音との境界が曖昧になりつつある。普段より少しだけ左手の進行に注意を払いながら、佳奈は楽譜の先を追う。
今まさに演奏されている楽曲は、佳奈自身によって作曲されたものである。音楽の経験がない直樹の耳にも音律は印象的に響いた。彼女は演奏に加えて、作曲の才も持ち合わせている。
和音のフレーズが幾層にも重なって音楽室の内側を飛び交う。高音の主旋律が実を結んでゆくその周りを、低音が取り囲む。
重音はその重々しさがメロディの枷になるということもなく、恒常的なリズムメイキングを続けている。そうした音の粒の軌跡は、あたかも旋律が鳴り進む道筋、空間に架けられたレールを丁寧に均しているようにも聴こえる。
音楽は佳境に差し掛かる。統一的なコードの進行はそのままに、手数が増え、音域が広がる。
そして旋律は、螺旋階段を駆け下りるように高音から降りてゆく。佳奈の右手が、すべての指がせわしなく動きながら左へとスライドしてゆき、鍵盤の中央あたりで左手に動きが引き継がれる。色とりどりの三連符が延々と響く。くるくると円を描きながら音がぱらぱらと落ちてゆく。そうして、一番低い位置で、音が止まる。

暫しの静謐が訪れる。
直樹は佳奈の演奏に表情を変えることすら忘れてしまい、佳奈を見つめたままでいる。佳奈はそんな直樹の顔を一瞥して、微かに微笑んだ。たった一人の観客のために紡がれた楽曲は、その余韻までもが音楽であるといわんばかりに、鳴り終えたいまでも二人の間に響き続ける。

「変な顔してる」
佳奈はピアノの蓋を閉じて立ち上がった。一拍遅れて直樹も立ち上がる。
「すげえ、すげえよ佳奈」
「これくらい誰でもできると思うけど」
「そんなことないって。ね、もう一曲弾いてくんない?」
「もうだめ。一応今は掃除の時間なんだから」
「お前の分まで俺やるから、頼むよ。あと一曲だけ」
「だめ。また今度ね」
佳奈がホワイトボードの落書きを消し始める。
「言ったぞ、絶対だからな」
「はいはい」
昼下がり、ありふれた日常の一場面。佳奈はそういったものの中に作曲のイメージを得る。馳せる想いが中空を包み、包まれた空間が淡く色付く。届けたい相手に届く音楽の瑞々しさは、深く深く心の奥底に沁みいる。
恋心とは、かくも少女を煌びやかにさせる。